ねじまき士クロニクル

名もない整備士のつぶやき

西日本豪雨 空白の天気図

 

「…台風の方も同じだ。災害地へ行って、罹災者から当日夜の状況について聞きとりをするのだ。大変な作業だと思うけれど、誰かがやって記録を残さなければ、この世界に前例のない原爆と台風の二重災害の体験はいつしか忘れられてしまう」

 

 あれから一年。梅雨の時期になり、広島では新聞の紙面でも夕方の報道番組でも西日本豪雨のことが取り上げられるようになりました。

 呉線から眺める海は以前と何も変わらず…それでも山側を見てみれば所々にブルーシートが点在しています。高速道路や国道は復旧されていますが、交通量の少ない県道や林道などは、今でも至る所で片側通行や通行止めになっています。天気予報で雨印を見るだけで不安になるという声もあります。

 

 それでも天気予報があるだけ今は恵まれた時代なのかもしれません。個人にとっては初めての災害でも、その場所にとっては初めてではない災害もあります。かつて、天気予報もないままに水害に襲われて多くの人々の命が失われたことがありました。

 1945年9月17日。場所は平成30年の水害とほぼ同じ広島と呉で。

 

枕崎台風

 それが平成30年の西日本豪雨と良く比較されている「枕崎台風」です。枕崎という地名は鹿児島ですが、これは台風が上陸した地点です。この台風で最も被害が多かった場所は鹿児島ではなく広島、呉です。原爆投下直後の広島に大きな被害をもたらしました。

 しかし、1945年9月17日という時期にもあってか、この枕崎台風に関する記録は被害の規模の割に残っていません。頼みの中国新聞も原爆で被害を受けた直後であり、さらに避難した温品の地で枕崎台風の被害を受けています。上陸地点の九州南部よりも広島でさらに多くの被害を出した背景には戦後の混乱と情報不足がありました。

 真珠湾攻撃の日から敗戦を迎えるまで、天気予報は一般庶民に公開されることはありませんでした。敵国に気象情報を知られることを防ぐため、災害時でもそれは徹底されていました。

 1945年7月中旬、広島の太田川が氾濫。堤防が低い地域では家屋に浸水被害が出て、町には「アメリカ軍の爆撃機が上流の発電用ダムを破壊した」という流言飛語が流れました。本当の理由は太田川上流の雨量が多かったためですが、天気予報は公的な機関にしか伝えられていませんでした。

 日本は気象情報を暗号化したり情報を統制して気象情報を隠していましたが、アメリカは日本各地の天気予報を独自に行っていました。皮肉にもアメリカ軍は気象観測用のB29で観測を行い、爆弾投下にはうってつけの日を選んでいました。

 それでも戦争は終わり、空襲警報の代わりに天気予報が日本中に流される日が戻ってきました。

 

「東京地方、きょうは天気が変りやすく、午後から夜にかけて時々雨が降る見込み」

 

 3年8か月ぶりの天気予報。それこそが平穏な日常への第一歩でした。もっとも、予報しようにも十分な機器はなく、各地からの満足な情報も得られず、周囲の空模様を見て出した天気予報でした。戦後初の天気予報は、直後に台風が来て外れたものになってしまったそうです。

 1945年9月17日、枕崎台風を迎えることになる広島の状況はさらにひどいものでした。天気予報などはまだできる状態にはなく、ほとんどの市民は台風が来ていることを知らないまま台風の襲来を迎えました。かなり長めの引用をします。

 

 広島管区気象台は、十七日午前十時「台風接近にともない今夜から風雨強かるべし」という気象特報を出した。同時に、鉄道機関に対する鉄道警報を発令した。発令と言っても、関係機関に直ちに電話で通報したり、ラジオで一般住民に知らせたりする体制ができていたわけではないのは、八月末の台風のときと同じだった。気象台の電話回線は、いぜんとして復旧していなかったのである。

 原爆で全焼した広島中央郵便局は、原爆後焼けたビルの中に交換台を仮設して、電話交換業務を再開したが、終戦までは軍用回線の復旧が中心になっていた。終戦後は、市の中心部にある主要官庁や会社、鉄道機関などの復旧も進められたが、九月に入ってからは、進駐軍のための回線作成に追われていた。

 

一方、報道機関も、終戦から一カ月経ったというのに機能は十分に回復していなかった。当時の唯一のラジオ電波、NHK広島中央放送局は、上流川町の局舎が全焼した後、郊外の原放送所の臨時スタジオから、生き残った職員の手で細々とローカル放送を出してはいたが、一日の番組の大部分は、東京からの全国中継放送を受けたものであった。気象台との間の専用線など敷設されていなかったし、台風襲来に備えて、積極的にローカルの気象情報を流す体制は整っていなかった。せいぜい全国中継ニュースの中で台風情報が伝えられる程度であった。しかし全国中継ニュースの台風情報は、どうしても上陸地に重点が置かれ、進路先の特定の地方や県に対するきめ細かい注意までは提供してくれない。ニュースを聞く側も、「台風が九州に来ている」ことはわかっても、それをわが身のこととして理解するだけの防災知識を持ち合わせていなかった。

 地元紙の中国新聞社は、原爆で百四人もの社員を失い、社屋も外郭を残すだけという惨憺たる被害を受けていた。空襲に備えて郊外の温品工場に疎開していた一部の輪転機で、ようやく八月三十一日付の新聞から、再刊にこぎつけたものの、取材体制も整わぬ中で編集された中国新聞温品版は、辛うじて新聞の体裁を保っているという紙面であった。生き残った社員たちは、懸命に紙面を埋めたが、取材の中心は戦災復興や配給や食糧のことであって、とても気象台の取材までは手が及ばなかった。時々紙面に載る気象に関する記事は、通信社から流れて来る中央気象台や福岡管区気象台の話が中心になっていた。もちろん夕刊はなかったから、仮に気象台が情報や特報を持ちこんだとしても、新聞に速報を期待することは無理であった。

 

 中央気象台は、八月二十二日気象管制の解除と同時にいちはやく東京地方の天気予報を再開したのに続いて、全国天気概況や漁業気象も相次いで復活させ、各地の気象台も次々にこれにならったが、原爆を受けた広島だけは業務の回復が全く遅れていた。

 こんなわけで、十七日午前十時広島管区気象台が発令した気象特報は、雨の中を自転車で江波郵便局まで出向いた台員によって、市役所と県庁、県警察部に伝えられたが、結局のところそれぞれの役所止まりの情報となったのであった。気象台による住民への直接的な伝達手段は、江波山の気象台屋上に掲げられた吹流しだけであった。だが、「風雨強かるべし」の特報発令中を示す「紅・藍」二色の吹流しの意味に気付くことのできた住民は、果たして何人いたろうか。

 

 

 夜が更けるにつれて太田川の水位は刻々と増していた。広島市内で二百粍を越える雨量を記録したことは、上流の山岳部では三百粍に達する大雨となっているに違いなかった。

 山奥の太田川上流、加計でははやくも十七日午後九時三十分に警戒水位を突破し、続いて中流の可部でも午後十一時に警戒水位を越えた。太田川の堤防工事は、戦争が激しくなった昭和十七年以後全く放置され、治山治水の施策は無に等しかった。支流の根の谷川三篠川、安川はいたるところで堤防が決壊し、川沿いの村落を濁流に呑みこんだ。最大の決壊は、夜半前に太田川の本流が大きく湾曲している可部付近の両岸で起こった。太田川の奔流は、暗闇の中を怒濤となって広島市郊外の農村地帯に襲いかかった。とくに西岸を突き破った濁流は、八木、緑井、古市、祇園にかけての水田地帯を見る見るうちに水没させ、あたり一面広大な湖のようにしてしまった。水の高さは二米を越えて、軒先に達したところもあり、流出する家屋が続出した。突然の洪水に、農家の人たちは屋根によじ登って難を逃れたが、逃げ遅れて濁流に呑まれる犠牲者も出た。

 それは単なる洪水ではなかった。折からの暴風で、水は時化の海のように激しく波立ち、水に浮ぶ家の屋根瓦が飛んだ。屋根に避難した人々は、暗闇の中で懸命にしがみついて、吹き飛ばされるのを防いだ。

 

 太田川による洪水は農村部だけではなかった。広島市内でもいたるところで氾濫を起こし、街中を水びたしにした。太田川は、広島市内に入ると、七つの川に分れて、デルタを形成していたが、とくにデルタの頂点、つまり川の分岐点付近の氾濫は凄まじく、焼け残った市北部の大芝や三篠一帯の市街地は床上一米も浸水するほどの洪水となった。

 さらに太田川の激流は、流木で橋脚を突き崩し、次々に橋を流失させた。広島市内の流出した橋は、東大橋、天満橋明治橋、観音橋、庚午橋、大正橋、旭橋、住吉橋、電車横川鉄橋など二十に及んだ。原爆で破壊されたり焼失したりした橋が八カ所だったのに比べ、台風による橋の被害がいかに大きかったかがわかろう。三角洲の街広島にとって橋は市民生活に欠かせないものであり、多数の橋が流出したことは、大きな打撃であった。とりわけ市西部の橋はほとんど失われたため、市内から己斐方面に行くには、はるばる市北部の横川橋を渡って迂回しなければならなくなってしまった。さらに、橋の流失とともに、水道本管も各所で流されたうえに、牛田浄水場の取水口は土砂で埋まり、全市断水状態となって、水道施設は原爆以上の被害を受けた。

 暴風雨と洪水は、原爆で廃墟と化した広島の街を骨髄まで洗い流す感があった。

 

 

 「空白の天気図」に出てくる広島の人たちの中で、天気予報で台風の接近を知り、その襲来に備えようとしていたのは厳島神社だけでした。それでも、厳島神社は土石流でかなりの被害を受けました。

 厳島の弥山への登山道は3つありますが、そのうちの大聖院コースと紅葉谷コース、この2つの登山道の脇を流れる川からの土石流が麓の神社を破壊しました。現在では2つの登山道沿いに大規模な砂防ダムが造られています。(砂防ダム沿いに登山道があると言った方が正しいかもしれません)それでも、急峻な弥山では度々土砂崩れが起きています。

 

厳島神社の復旧工事が始められたのは、実に三年後の昭和二十三年春になってからであった。そのきっかけを作ったのは、GHQのチャーチル・ギャラー美術記念物部長であった。ギャラー部長は、全国の美術建造物の視察の一環として、昭和二十一年十一月二十六日厳島神社を訪れ、参拝した。彼は、日本の古代文化を伝える美しい神社が、災害を受けたまま放置されているのを見て、「こんなことではいけない、日本政府は何をしているのか」と言った。彼は東京に帰ってから、文部省に対し厳島神社の復旧事業を急ぐよう要請した。このGHQからの叱咤によって、ようやく国の二十二年度予算に厳島神社の災害復旧費が組まれ、二十三年三月から工事が開始された。復旧工事は、神社境内を埋めつくした土砂を取り除いて、破壊された天神社や回廊などを復元するのはもとより、渓流の砂防工事までも含む大がかりなもので、三年がかりで、国、県、神社合わせて二千四百十五万円がつぎ込まれた。復旧工事が完了したのは、災害から六年も経った昭和二十六年三月になってからであった。)

 

 

 他に原爆被害調査のために京都帝国大学から来て大野陸軍病院で被災した調査団の災難についても「空白の天気図」に書かれてあります。

 なお、原爆と枕崎台風を扱ったこの作品ですら、枕崎台風での呉の被害はほぼ書かれていません。広島県内の死者行方不明者は2000人以上のうち、その過半数呉市の被害者ですが、事後の被害の結果を数字で示されているだけです。それだけ台風のその後の情報がないということでしょう。

 

「戦争が終っても気象業務は続けているのです。平和になったこれからこそ気象は大事なものになるのです」

 

 過去の歴史を知り、砂防ダムが造られ、治水工事が行われ、そして何より正確な天気予報を知ることができる時代になった。でもそれだけでは足りない気がするのは私だけでしょうか。

 

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昭和20年9月 呉市氾濫分布図

 

www.pref.hiroshima.lg.jp

 

「空白の天気図」 柳田邦男 文集文庫より