ねじまき士クロニクル

名もない整備士のつぶやき

イスラム教の論理

私たちはイスラム教の教義や論理について全く知らないにもかかわらず、私たちの価値観に反しない理解可能なイスラム教だけが「正しい」イスラム教だと決めつける傾向にあります。

 

私たちは、イスラム教徒が1日5回礼拝をすることを妨げようとはしません。日本でも在日イスラム教徒や観光客の便宜のために、空港や商業施設に礼拝用の部屋を設置するところが増えてきました。しかし私たちは、ジハードの義務を遂行すべく武器をとって異教徒を攻撃する人のことはテロリストだと糾弾します。礼拝もジハードも同じようにコーランで規定された義務なので、イスラム教の理屈においては等しく正しいのですが、私たちは私たちの理屈に基づきジハードだけを非難します。「ジハードだかなんだか知らないがテロは許さない」といったり、「過激な解釈をするイスラム教徒とは一緒に暮らせない」といったりするのは、私たちの自由です。私たちには私たちの論理があり、その論理に従った持論を唱える権利もその論理で保証されています。しかし「ジハードはイスラム教の教義ではない」といったり、「過激な解釈をするイスラム教徒はそもそもイスラム教徒ではない」といったりすることは、明らかに越権行為です。イスラム教の教義の何たるかを議論すべきはイスラム教徒自身であり、特定のイスラム教徒に「お前はイスラム教徒失格である」などと宣言することはまさに「イスラム国」がやっていることそのものです。

  

 この作者はこんなところまで言ってしまっても大丈夫なのでしょうか?と他人事ながら心配してしましました。宗教に関しては日本ですらデリケートな問題です。世界でもっとも勢いがあると言ってもいいイスラム教への批判はもちろんタブーです。宗教に関して意見を言うことさえ憚られてさえいます。

 要点だけあげたら、イスラム教の内側にいる限りISISのことは非難できない、すべてはコーランに書かれていることだから。ということです。ISISはコーランに書かれていることを忠実に行っているだけだということです。

 でもこの本はイスラム教への批判ではなく事実の積み重ねです。というかこの本に限らず、宗教への批判自体がある程度はその本質を突いているものなのかもしれません。その批判への本質を各宗教を信仰している人が受け止められるかどうかはまた別の話になりますが… 多様性や寛容は美しい言葉ですが、価値観の違う相手に対して相手も同じ感情を抱いたりや同じ行動に出てくるということを期待するのはやはり幻想です。21世紀の始まりに9・11が起きてから何となく世界中が気付いていることなのかもしれませんが幻想はいつか消えます。

 そもそもある宗教に別の宗教に対する寛容というものを期待することが間違いです。宗教に対して敬虔であればあるほど他の宗教のことは認められなくなるはずです。特に一神教多神教のことを絶対に認めることはできません。多神教を認めてしまうと、神は唯一無二の存在という根幹が崩れます。多神教を認めてしまう時点で一神教の教徒としては失格です。一神教徒から見れば多神教を信仰している人は、誤った神さまを信仰している救われない哀れな人という認識です。表立って口には出されないかもしれませんが、出されることもありますが、これが現実です。

 アラビア語が日本語から遠く離れた理解が難しい謎めいた言語のように、イスラム教も日本人の宗教観なるものから遠く離れた思想です。日本人の価値観だけで考えると理解できないことも、何事にもコーランアッラーが優先するというイスラム教の価値観を基にして考えれば多少は理解することもできます。納得できるかどうかは別ですが。

 宗教に関心が薄い先進国の出生率の低下や途上国の人口が増えることによって、100年後の22世紀の世界ではイスラム教徒が世界の人口の3分の1を占めることになります。産めよ増やせよという神さまの言葉通りに一神教を信仰する人たちがどんどん増えることになります。移民を割とそれなりに考えている日本にとって宗教は他人ごとではない問題です。おそらく。

 著者は本の冒頭でこう述べています。

私は、この変わりゆく世界を生き抜く知恵を授けてくれるのは主体的な学びであると信じています。本書がそれに共感する人々の一助となることを願います。

 日本は信仰を強要されることもとりあえずはないし、仏教とか神道とか割と平和な国でよかったな。めでたしめでたし?

 

イスラム教の論理 (新潮新書)

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