ねじまき士クロニクル

名もない整備士のつぶやき

悲劇のルワンダ 希望の義足

 アフリカ中部の小さな国ルワンダ。20年以上前にあった虐殺では人口の80万人以上の命が失われました。生き残った人々も地雷やマチェットで手足を失った人々が80万人にも及びました。

 

 東京で働いていたOLの吉田真美さんは子どもの頃から海外に行きたいと願っていながらも、満員電車に揺られ現状に自問自答する日常を過ごしていました。それでも書店で手に取った旅行ガイドの語学学校の記事がきっかけでケニアに語学留学に行くことになりました。26歳での挑戦でした。

 ケニアに語学留学に行った際にルワンダ出身のガテラさんと知り合いました。ガテラさんは幼少期にマラリアの治療で受けた注射が基で右足にマヒが残っていました。留学中はそれほど親しかったわけではありませんたが、語学留学が終わった後もなぜかガテラさんのことが気になり真美さんはガテラさんに返事を期待せずに手紙を送ってみました。手紙が返ってきてそこに書かれていたのは憧れのルワンダではなく、ルワンダで拷問や民族差別に苦しんでいたガテラさんの現状でした。

 

 ケニアで再会し、「2人でルワンダのために何かしたい」という思いを改めて確認しました。でもまだそのときにはその何かははっきりとはしませんでした。

 今度はガテラさんが来日しました。そのときにマヒをしていた右足を支えるため部品が壊れました。その部品を修理してもらっていた過程で共通の思いが芽生えました。

「日本で義肢装具の技術を習得して義手義足が必要なルワンダの人たち作りたい」

 彼女の元々の動機はルワンダとためという大きなものではなく「彼の足を作りたい、この人が歩けるようにしたい」という気持ちだったようです。一方彼は「ルワンダを良くしたい」という気持ちだったようです。

 ガテラさんが日本を離れた後仕事を辞めて、義肢づくりの工房に弟子入りして経験を積みます。その間、ルワンダと日本を結ぶものは手紙のみ。その最中に1994年の虐殺が起きました。

 それでも彼はケニアに逃れて生き延びていました。1995年、義肢工房建設のために真美さんはルワンダに渡ります。

 そこで見たものは上記のように国民の多くが手足を失って義肢が必要な厳しい現実でした。

 真美さんは日本中にある義肢製作所300か所に田神を書いて中古の義足の募集を呼びかけました。ルワンダで義肢の材料費や工賃などをお客さんからもらうということは無理な話でした。日本で集めた中古の義足を基に、新しい義足を作り無償で渡すというアイデアでした。日本中から義足約60本と200万円近い寄付があるまりました。その中には故人の義足で思い出が詰まっているものもありました。

 

1997年4月。ついに工房はスタートしました。

 ある1人の顧客、セザールは祖国を救いたいと若くして参加した戦闘中、爆弾で左足を失いました。それ以降は目的もないまま杖を突いた生活をしていました。湖で泳ぐのが得意だったセザールのために真美さんは見事な義足を作り渡しました。セザールは義足をそれほど役に立つものだとは思っていませんでしたが、実際に使って良さを実感しました。以前と同じように、他の人と同じように立ちあげがれるということが何よりもうれしかったのです。

 

 順調に軌道に乗っていくかと思いきや、ある日「足があると、お金を恵んでもらえない」と路上で物乞いをしていた女性と出会ってしまいました。工房で義足を受け取って帰った30代の女性でした。せっかく義手義足を無償で作って渡しても、五体不満足の方を選んでしまう途上国の人たちの現状を目の当たりにします。また、多くの物資を日本からの寄付で賄っていたので次第に現地のスタッフの仕事の質も下がっていきました。途上国の人たちの精神的な自立が達成できない限り、解決は不可能な問題でした。

 

 そのとき、あるニュースを耳にしました。「シドニーパラリンピックが開かれる」

 彼女は思いました。「ルワンダ代表を送ることはできないだろうか」

 パラリンピックの本部に手紙を送り許可を取り、ラジオで選手の募集を呼びかけました。

 

 水泳の得意な一人の青年が名乗りをあげました。片足を失い工房で義足をもらったあのセザールでした。湖で泳ぐのは得意と言っても競技に出るのは初めてだったのでシドニーに行くまでの半年の間、セザールは17メートルしかないホテルのプールで練習しました。出場種目は50メートル自由形。それまでセザールは平泳ぎしかしたことがなかったそうです。真美さんはその間、日本中に支援を呼びかけ200万円を集めました。シドニーに行く直前でルワンダ政府からも支援金をもらいました。

 シドニーパラリンピックでのルワンダの出場選手は彼ただ一人、開会式には真美さんの姿もありました。予選は大会11日目。シドニーのプールで初めてスタートの飛び込みの練習を開始したほどでした。

 そして予選。結果は最下位。それでも見守っていた観衆からは拍手が沸き起こりました。

 

 

 

 

  スポーツの価値はメダルだけでは測れないものがあります。

 上記のガテラさんは子供の頃のマラリアの注射が原因のようですが、途上国は小児まひのせいなのか、交通事故などのせいなのか、四肢に障害を抱えている方が多いです。もちろん先進国のような社会保障もなく、働き口も限られているので貧困に直結します。その中で、仕事を辞めて未経験の職場に弟子入りしてルワンダに工房を立ててパラリンピックに選手を送った真美さんの行動はすごいです。

 アフリカの中でも欧米から優等生と言われているルワンダの動向を気に掛けておきます…

  現在でも工房はムリンディ・ジャパン・ワンラブ・プロジェクトという名前で現在も活動されています。