ねじまき士クロニクル

名もない整備士のつぶやき

何としても植民地を レオポルド王2世 レオポルド王の亡霊

 読みかけの『The Scramble for Africa』という本の中で19世紀後半のアフリカ分割についての説明がこうされています。

 アフリカはケーキのように切り分けられて5つの国家に飲み込まれた。ドイツ、イタリア、ポルトガル、フランスそしてイギリス。(スペインはおこぼれを少々) 

フランスとイギリスが先を争った。そして、アフリカ大陸の中心は各国の利害関係を利用して、博愛主義者の旗印を掲げたベルギー王レオポルド二世が取った。

 国家と並んでレオポルド2世(1835~1909)だけが名指しでアフリカ分割の登場人物にあげられています。数ある植民地の中でも過酷な支配だったコンゴホロコーストを越える死者数。写真に残された処刑の証として切り落とされた手首。日本に落とされた二発の原爆の原産地。それにも関わらず日本ではその歴史はほとんど知られていません。

 ルワンダの虐殺は世に知られているかもしれませんが、そのルワンダの虐殺も間接的にレオポルドから続くベルギーの支配が関わっています。

 

 

 

ベルギーは1830年にオランダからの独立を果たした若い国家でした。若い国家には何かしらの象徴が必要ということで、ドイツから王子さまがやって来てレオポルド1世として即位しました。

 レオポルド1世は政略結婚で結ばれた妻そして子供も愛していませんでした。その妻も長男を愛していませんでした。つまりレオポルド2世は両親の愛を受け取ることなく育ちました。

 例えば、レオポルド2世が父親と会うときには謁見を申し込まなければならず、逆に父親から何か話があるときは係の者を通して伝えられました。レオポルド2世は王子でありながらも恵まれていなかった子供時代でした。

 

 レオポルド2世が18歳の時に父親がウィーンに行き話を付けて、ハプスブルク家のマリ―アンリエットと婚約を行いました。お互いに一目会った時から嫌いあっていました。この第一印象は終始変わることはありませんでした。

 ベネチアでの二人のハネムーンでは一緒にゴンドラに乗ることはありませんでした。マリ―は結婚の1か月後に友人に「もしも神さまが願いを聞いてくれるなら、それほど長生きはしたくない」という手紙を送っています。

 レオポルドは王になる前から、おそらく20になる前からベルギーの領土が小さいことに不満を持っていました。旅行先に行けばどこでも何か植民地を得るうえで役立ちそうな知識を集めていました。

 1862年、レオポルドは26歳の時にスペインのセビリアを訪れています。有名な聖堂を訪ねるためでもなく、名高い庭園のアルカサル宮殿を訪ねるためでもありませんでした。セビリアは金や銀の貿易で栄えた街だったので、政府、裁判所、地図、建築物、スペインによるアメリカ大陸の征服、その他諸々の資料を漁っていました。セビリア滞在中に「植民地からスペインが過去と現在どれだけ利益を出していたか調べるのにとても忙しい」と友人に手紙を送っています。

 1864年には植民地に対する意欲はさらに旺盛になり、家庭内の問題から逃げるようにアジアへ向かいました。イギリスに統治されていたセイロン、インド、ビルマを訪ね、目の上のたん瘤である隣国オランダの東インド会社も訪れました。小さい国土でも儲かる植民地を得ることができるということを目の当たりにしました。

 ジャワ島から得られるコーヒー、砂糖、藍、タバコの利益がオランダの鉄道や運河の原資になっていることに感銘を受けました。もちろんその利益は原住民の強制労働によって成り立っていましたが、レオポルドは「強制労働は極東の怠惰な原住民を教化する唯一の方法である」と覚書をしています。

 レオポルドはフィジーやフィリピン、台湾の島々も狙っていました。儲かる場所、儲からない場所は別にして、とにかく世界のどこかに自分の土地が欲しかったのです。金で買おうとしたこともありましたが、これらの場所の入手は先に植民地化していた国々によって断られています。「この時点では」ほとんどの政治家とベルギー国民はレオポルドの植民地獲得に対する熱意に懐疑的でした。

 

 1865年に父親であるレオポルド1世が崩御。王位を継承します。しかし、この頃からさらに家庭内の問題が噴出することになります。

 1869年、9歳の一人息子が池に落ち肺炎にかかり亡くなってしまいました。葬式ではレオポルドの人生の中でただ唯一、公の場で泣き崩れて感情的になり、棺桶の側から離れることができませんでした。レオポルドには他に三人の娘がいましたが、彼自身が親から愛されなかったように娘たちを愛することはありませんでした。三人目の娘が生まれた時は妻に対して怒り狂いました。

 

 1870年頃には、レオポルドに残されていた場所はアフリカしかありませんでした。貿易に便利な海岸沿いを中心にアフリカのいくつかの場所は先客によって取られていましたが、まだアフリカ全土の80%を越える場所は残されていました。

 風土病や過酷な気候で白人の侵入を拒んできたアフリカの内部でしたが、マラリヤに対するキニーネや、河川を遡上できる蒸気船、大量の物資を輸送できる鉄道などの科学技術のおかげでアフリカの内陸の探索ができる時期が来ようとしていました。

 

 世界各地に散らばる土地の買収には失敗しましたが、アフリカに残された巨大な土地を得るため、レオポルドは他の大国を刺激しないように慎重に事を進めました。そのためアフリカの探検家たちに資金の援助を行い情報収集を行いました。数ある候補の中から、レオポルドは1人の探検家に目を付けることになります。ヘンリー・モートン・スタンレーです。レオポルドはスタンレーがリヴィングストンを捜索に行っていた時から関心を持っていました。

 イギリス出身のスタンレーは縁もゆかりもないベルギーではなく、コンゴがイギリスの統治下になることを望んでいましたがすでに多数の植民地を抱えていたイギリスではコンゴの植民地化に対してあまり興味を持っていませんでした。

 

 1876年以降は探検家と地理学者を集めた会議を度々開きました。探検家もヨーロッパの国家も「アラブの奴隷商人からアフリカを救うため」と言う美辞麗句によって我先にとアフリカ進出を狙っていました。博愛主義の旗印を掲げてアフリカの教化を謳っていたレオポルドには、スエズ運河を開通させたレセップスも賞賛しています。もちろんそれは嘘で「アラブの奴隷商人からアフリカを救った」あとはもちろんヨーロッパ諸国による搾取が待っていましたが。

 

 単独ではイギリスやフランスとドイツと争う力がなかったベルギー王レオポルド2世は各地に根回しをして虎視眈々と時期を待つことにしました。

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