ねじまき士クロニクル

日向の窓にあこがれて

アフリカに光を スタンレー レオポルド王の亡霊

“shoots negroes as if they were monkeys,”

猿を狙うように黒人を撃て

 

 自動車産業に携わる人で「スタンレー」という会社を知らない人は恐らくいないはずです。車の電球を作っている会社です。東証にも上場しています(6923)。チャートを見る限りここ数年は堅調に推移。配当利回りは1%ほど。エンジンがない車が、道を走る時代が来るかもしれませんが、電球がない車が道を走るのを想像するのは難しいです。暗闇の中を走行するのに「光」は必須です。元々は北野商会だったところを1933年にスタンレーと社名変更しています。スタンレーの社名の由来は、19世紀後半、暗黒大陸アフリカに「光明を掲げた」探検家のスタンレーにちなんでいます。

 

社名の「スタンレー」は、19世紀後半、アフリカ大陸を探検し、偉大な足跡を残した“勇気と行動力の人”、イギリスの探検家ヘンリー・モルトン・スタンレー卿に由来しています。 スタンレー卿は、17歳の時にアメリカに渡り、南北戦争に従軍したのちにニューヨーク・ヘラルドの社員となりアフリカで消息を絶ったリビングストンを探して劇的な出会いを遂げたり、アフリカ各地を探検してナイル川コンゴ川の源を突き止めたり、コンゴ自由国建設の基礎をつくったりと、“世界に光明を掲げた”人物です。 

 

 自動車の電球が切れたら、言うまでもなく夜の走行は危険です。確かにスタンレーの電球は暗闇の世界を照らしてくれます。ですが、その社名の由来となったヘンリー・モートン・スタンレーは本当にアフリカ大陸に「光明を掲げた」人物なのかどうか?スタンレーが掲げたと思っていた「光」が、今なおアフリカに暗い「影」を落としているとしたら?これほどの皮肉はないかもしれません。

 

 スタンレーの名が知られるようになったのは、リヴィングストン博士をアフリカで発見したことによります。スタンレーがアフリカ奥地を探検したのは19世紀後半、ヨーロッパがアフリカ大陸の沿岸部だけではなく内陸まで触手を伸ばし始めた時期と重なっています。

 当時のアフリカの探検家は、現代の映画スターやスポーツ選手のような人気がありました。新しい物事を次々と「発見」していく探検家という職業は当時の少年少女たちの憧れでした。作家のジュール・ヴェルヌが科学技術を小説に持ち込んで人気を博したのがほぼ同時期に当たります。『80日間世界一周』が現実になりつつあろうとしていた時代でした。

 

 

 1841年イギリス、とあるメイドの私生児としてスタンレーは生を受けました。生まれた時の名前はJohn Rowlands。スタンレーの母親には交際していた人たちがたくさんいたようで父親については諸説あるようです。少年時代はディケンズの小説『オリバー・ツイスト』のオリバーのような境遇でした。つまり、家族に蔑まれ施設に送られ恵まれた少年時代とは言えませんでした。そして、若くしてチャンスを求めてアメリカに渡りました。アメリカに渡った後は、生まれ育った環境を隠すためなのか「アメリカで生まれ育った」と周囲には言っていたようです。この時にJohn Rowlandsという名前も変えて「スタンレー」になっています。

 アメリカに渡ってからのスタンレーは、南北戦争に従軍したり、船員になったりしていましたが、新聞記者に落ち着くこととなります。そして上司からの「リヴィングストンを探してこい」という指令で、アフリカに発つことになりました。現代のスクープを狙った記者と似ているかもしれません。ここから探検家「スタンレー」が歩み始めたことになりました。

 リヴィングストンは19世紀半ばに30年もの長きにわたってアフリカを探索し続けていた著名な探検家でした。ナイル川の源流を探り、ヴィクトリアの滝を見つけ、資源を探し当て、キリストの福音を広めて、アフリカ大陸を初めて横断した白人として知られていました。当時の大英帝国の精神を体現するような博愛主義者で暗黒大陸のアフリカにキリストの教えを広める、リヴィングストンは言わばイギリスの英雄だったわけです。アフリカの各地に、リヴィングストンやヴィクトリア女王の名を冠した地名があるのはその名残です。対外的にも大英帝国が最盛期を迎えようとしていた時期でした。そのリヴィングストンが1866年にアフリカ内部の探検に出てから消息不明になっていました。

 奴隷貿易の拠点でもあったタンザニアの沖合のザンジバルで準備を整えたスタンレーは、1871年の春にアフリカ大陸内部の探索を開始します。「どこにいても、たとえ骨になっていても見つける」という覚悟で、現地で雇った者たちとリヴィングストンを探しに行きました。

 そして半年後、現在のタンザニアの奥地で1871年11月10日 “Dr.Livingstone, I presume?”(リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?)とリヴィングストンを発見しました。

 アフリカの奥地で出会ってから、2人は交流を深めたりナイルの源流を探すためにタンガニーカ湖を調査したりしました。が、しばらくしてリヴィングストンは亡くなってしまいます。リヴィングストンは生きてイギリスに帰ることはありませんでしたが、リヴィングストンを「発見した」スタンレーは名声を得ることとなりました。

 

 キリスト教に裏打ちされた博愛主義者だったリヴィングストンと違って、スタンレーは黒人たちに対して厳しい隊長でした。探検の道中もかなり厳しい罰を与えていたようです。そして当時一般的だった考え方と同様にスタンレーもアフリカを、誰も住んでいない空白の土地だと見なしていました。探検の最中に現地の黒人を、サルと同様に見なして銃で撃っています。襲撃した街や村の数を数えてすらいます。イギリスはアフリカに住む黒人に対して「文明化」と「キリスト教の布教」という文句を武器にアフリカの内陸までその影響を拡大させていました。当時のアフリカは、ヨーロッパの産業発展のための原材料の供給先としか見なされていませんでした。この原材料にはもちろん労働力として「奴隷」も含まれています。イギリスでは19世紀の始まりに奴隷制は廃止されていましたが…すべての国すべての場所で廃止されているとは限りませんでした。そういう時代でした。

 スタンレーが荒らしまわった地域に、白人の所業を覚えている人物がいました。その人の記憶の中では「奇妙な集団の隊長は、顔が白く、額の真ん中に目が一つだけあった…」ということでした。顔の前で銃を構えている姿か、単眼鏡を使用している姿の印象が強かったのかもしれません。他にスタンレー達の人肉食を匂わせる記述もあります。何百人もの探検隊のお腹を満たすためには手段は選べなかったのかもしれません。それでも、なぜスタンレーはアフリカ奥地を探検することができたのか?当時のアフリカの内部はまとまった国ではなく、200以上の部族と400以上の言語、という状況だったので金と暴力を使って探検と征服ができたというのがその答えのようです。

 リヴィングストンの発見によって名声を得たスタンレーでしたが、リヴィングストン探検中に女性にフラれています。アフリカへの探検は大衆にとっては熱狂を巻き起こす種類の行動でしたが、結婚を期待していた女性にとっては迷惑な行動だったのかもしれません。なお、スタンレーはこのリヴィングストン捜索が終わって再度アフリカに行った時にも「帰ったら結婚しよう」と思っていた別の彼女にふられています。どちらも帰ったら他の誰かと結婚されていました。また自身の「出生」に関して、彼女たちから指摘されてかなり落ち込んだそうです。彼女たちと釣り合うような誇りを持ちたくてアフリカに行ったスタンレーでしたが、彼女を置いてアフリカに行くような男はモテないのかもしれません。いつの時代も一般的に女性が求めるのは安定なのでしょうか。

 名声とアフリカ内部の知見とともに、ヨーロッパに帰ったスタンレーでしたが「母国イギリス」は元々、広大な植民地を保有していただけあってスタンレーのアフリカ探検にあまり関心がありませんでした。

 そのスタンレーに、植民地獲得を狙うベルギー王レオポルド二世が近づくこととなります。コンゴの悲劇は、スタンレーにレオポルド王が接触することから始まりました…レオポルドの右腕と言ってもいい存在になったスタンレーはアフリカの様々な情報をレオポルド二世に渡すことになります。そしてレオポルドの手先として再度アフリカへ渡りました。

 レオポルド二世とスタンレーの尽力で『コンゴ自由国』はベルギーの植民地(レオポルド王の私有地)となりました。始めは採算の取れない植民地失格の場所でしたが、ゴムが発明されたことにより莫大な利益を産む植民地になりました。その結果、過酷なゴムの採取によりレオポルド統治下の20年で2000万人だった人口が半減しました。コンゴから莫大な利益を得ていたレオポルドでしたが、自身は生涯一度もコンゴの土地を踏むことはありませんでした。

 

 最後にもう一度株式会社スタンレーの社名の由来になったスタンレーを。

コンゴ自由国建設の基礎をつくったりと、“世界に光明を掲げた”人物です。

 

 

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