ねじまき士クロニクル

日向の窓にあこがれて

冬の鷹 ターヘルアナトミア

 日本史の教科書を開けば「解体新書は杉田玄白によって翻訳された」とあるかもしれませんが、実際の玄白は翻訳を開始するまでABCも知りませんでした。解体新書を本当に訳しながらも書物に名前を載せるのを自ら断った人物、前野良沢のお話です。江戸時代に比べて今ほど語学の習得に恵まれている時代はないと思いますが、残念ながら私は日本語しか話せません。話すよりも読めたら良いのにと思うことはたまにありますが…良沢のような強い意志が欲しいです。

 前野良沢は50に手が届きそうな年齢になるまでは外国語との関わりはありませんでした。当時の一流の通訳にオランダ語を学ぶことの困難さを説かれながらも、辞書もない中、一念発起して解体新書を訳すことを決心します。

 当然、今までの日本語になかった概念も訳さなければいけません。その時にはカタカナを使って…という音だけを取り入れてカタカナを使用するということはなく漢字で言葉を作っています。神経、軟骨、十二指腸…今の医療関係の言葉があるのも「解体新書」を訳した前野良沢のおかげかもしれません。

Zenuw などという語もどのように訳してよいか、良沢にはわからなかった。この語も発音に擬して世奴としたが、良沢たちは思いきって神経という言葉をあてた。その Zenuw の説明文を翻訳すると、「その色、白くして強く、その原、脳と脊とより出づ。蓋し、視聴、言動を主り、且つ痛痒、寒熱を知る。諸々、動くこと能はざる者をして、能く自在ならしむる者は、この経あるを以ての故なり」という文章であった。その一文から察すると、神秘的な器官であることは明白なので、神経という言葉をあてたのである

  オランダ語の通訳の語学力も当てにはならないものでした。何とか話すことはできても、読めませんでした。これは外国に行きさえすれば言葉が話せて読めて理解できるようになるという幻想にも当てはまるかもしれません。通訳の苦悩はロシア語通訳の第一人者だった米原万里さんの著作に詳しいです。内輪でせっせと翻訳に励んでいた良沢らは翻訳途中の「解体新書」を幕府公式の通訳に見せて、正誤を確認しましたが、通訳は狼狽し上手く答えられなかったそうです。

 しかし、一般的に長い歳月通詞の仕事をしていた者も、すぐれた語学力の持ち主とはかぎらなかった。その原因は、かれらがオランダ語を学問として基本的に学習することをせず、もっぱら口まねでオランダ語を会得することのみに終始していたからであった。かれらは通詞見習になってからも、単なるオランダ人の雑役をしているにひとしく、系統的な教授をうけることもないそのうちに、オランダ人の発する言葉を一語ずつ知るようになって、その蓄積の上に大通詞への道をすすんでゆくのだ。しかもかれらは、職業人としての自分の立場をまもるために同僚や後進の者に知識をつたえることをこばむ傾きが濃かった。いわばかれらは、頑迷な職人に似た偏狭さをもっていたのだ。それに幕府の施策としてかれらには文法書、辞書等を所持することがゆるされず、ただ身ぶりや表情でそれと察したオランダ語の意味を耳から頭の中にたくわえていたにすぎなかった。

誤訳は随所にみられるが、総体的にみて大意はほとんど正しく翻訳されていた。そして、かれらはふたたび町奉行所に申出て、骨ヶ原刑場で腑分けを実見し、翻訳が実際の人体と相違ないかをたしかめたりした。

 江戸時代も後の方になるまでは人間の体を解剖することはタブーだったので、西洋の知識は今までの東洋の知識とは違いました。戦国時代を経ての江戸時代なのに、人体を解体するのがタブーだったのが少し不思議です。今まで信じられていた知識と、洋書の内容や人体を解体して学んだ知識が違ったので、良沢らは幕府や世間の反応がどのようなものになるか心配だったそうです。

幕府は、キリシタン絶滅に全力をかたむけ、同時に洋書の輸入も厳禁した。それは、幕府の政治形態を安泰にさせるための処置であったが、同時に諸外国からの圧力を排除することを目的とする政策でもあった。西欧各国は、植民地拡大に狂奔していたが、南アジア、アフリカ大陸などで成功した植民地化の方法は、例外なくキリスト教の布教による人心把握を前提として推しすすめられてきた。つまりキリスト教の滲透が、植民地拡大の有力な武器として活用されている節があったのだ。

 キリスト教が普及しなかったのは、日本人の精神に馴染まなかっただけではなくやはり鎖国政策も大きかったようです。キリスト教に乗っ取られた日本というのも少し見てみたい気もしますが…お上のキリスト教政策がなくなった明治時代は多数の知識人がキリスト教に改宗することになります。医学書だったから許されたのであって、キリスト教の本ならば間違いなく出版は出来ませんでした。その医学書でも学者肌の良沢は翻訳の中身に不満があったので、刊行には否定的でした。

かれは、ターヘル・アナトミアの翻訳書――「解体新書」の刊行に不賛成だった。少くとも時期尚早と信じていた。翻訳は一応成ったが、良沢にとってその内容は決して満足すべきものではなかった。さらに長い歳月をついやして訳を練り、完訳をはたして後に初めて刊行すべきものだと思っていた。しかし、玄白は、「草葉の蔭」と渾名されても辟易する風はなく、ひたすら出版することのみに心をかたむけていた。訳語の中には不明のものも多いのに、玄白は妥協を強いてこじつけに近い訳出をしてかえりみようとしない。学究肌の良沢には、そうした翻訳経過が大いに不服だった。

  解体新書に関して思想信条が異なっていた前野良沢杉田玄白は刊行した後は疎遠になり、積極的に交流をするということはなかったそうです。

玄白は、良沢の死んだ当日の日記に「十七日雨雲近所・駿河台病用」という文字の下に、「前野良沢死」という五文字を記したのみであった。

 

冬の鷹 (新潮文庫)

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