ねじまき士クロニクル

いちごの味に似ている

祖父たちの零戦

祖父たちの世代が体験した「零戦」の戦いを通じて、こんな戦闘機が日本にあり、搭乗員たちがいたという、そのことだけを、いまを生きる人々に伝えたい。──これが、この物語に登場する零戦搭乗員たちから、世紀を越えた遺言ともいうべき「最後の証言」を託された私の、筆者としてのささやかな一念である。

 祖父たちの戦争が歴史の中の戦争になる日が近いうちに必ずやってきます。別に私は右でも左でもありません。ただ日本がいつまでも繁栄してほしいなと甘い白昼夢をぼんやりと見ている市井の小市民です。考えているだけで行動に移すわけでもないまぎれもない小市民です。

 進藤藤三郎と鈴木實という江田島海軍兵学校同期の2人の零戦パイロットを軸に話しを進めていきます。戦後からかなりの時間が経った時点でのインタビューが多数です。戦時中のパイロットの話を聞くにはぎりぎりの時期だったかもしれません。あと5年10年したら間違いなくもう本や映像の中でしか知ることはできない話ばかりです。こういった本に要約は不可能です。知るには読むしかありません。好きな箇所を抜き出して好き勝手に文章を書きます。

 

進藤は、「零戦初空戦」の戦闘詳報や「ハワイ作戦」の軍機書類を、時間が経つのも忘れて読みふけった。そして、海軍兵学校六十期の同期生で親友の鈴木實に、「こんな書類が出てきたよ」と電話で知らせた。

「貴様、そりゃ銃殺ものだろう」

 保管していた戦時中の機密資料が戦後に見つかって友人に報告したところ

「こんな書類出てきたよ」「貴様、そりゃ銃殺ものだろう」

という会話です。思わず笑ってしまいました。なかなかお茶目な会話だと思いませんか?パイロットも制服を脱げば一人の人間です。いや、戦時中も一人の人間でした。そういったエピソードが多数紹介されています。エピソードを通して、戦争に携わっていた人たちの中で、最前線の兵士が一番冷静だったのではないかという印象があります。そして戦争に関する本では珍しく?偏っていないと感じました。零戦と戦っていた中国側のパイロットのエピソードも紹介されています。戦後半世紀を過ぎて、撃ち落とした側と撃ち落とされた側が対面したことがあったそうです。戦争していても50年経てば国同士では多少問題があっても個人の範囲では相手を許すことは可能なのかもしれません。もちろん人に寄りますが…

 

海上交通の要衝である周防灘、豊後水道に臨む大分県東岸には、宇佐、大分、佐伯と海軍の飛行場が造成されていた。聯合艦隊も、訓練が終われば別府湾に投錨し、乗組員を休息させるのが通例になっている。日本有数の保養地であった別府は、呉や横須賀のような軍港地とはまた別の意味で「海軍の町」であった。

鈴木の行きつけは、いまも温泉ホテルとして名高い「杉乃井」で、ときに海軍料亭「なるみ」(昭和六十一年廃業)に上がることもあった

 文中で「別府が海軍の街」と紹介されていました。大分の海軍の施設や、豊後水道という立地から海軍の保養所のような扱いを受けていたそうです。当時からあの杉乃井ホテルはあったそうです。私はスパポートという、言わば別府へのパスポートを持っているくらいの別府好きですが、別府が海軍の街というのは知りませんでした。道は歴史を表します。少し前までは広島と大分を結ぶフェリーがあったような気がしますが時代の流れからか廃止になっています。航路という昔の面影を忍ぶものがなくったのは少し悲しいです…ただ徳山から竹田津までの航路は今でも残っています。

 

広島から呉にかけては、陸海軍の重要な施設が多く、かつてこのあたりでは軍人が幅を利かせていたものだ。その反動なのか、原爆の被害に対する憤りのはけ口なのか、敗残の旧軍人に、人々の視線はきびしく、冷たかった。

「むなしい人生だった」というのが、進藤の偽らざる感慨であった。「戦争中、誠心誠意働いて、真剣に戦って、そのことにいささかの悔いもありませんが、一生懸命やってきたことが戦後、馬鹿みたいに言われてきて。つまらん人生でしたね」進藤は晩年、筆者に対してそう述懐しているし、遺稿となった手記にもそう記している。

 進藤氏は戦時中は活躍を顔写真入りで新聞報道されていたので、戦後は地元の人たちに戦犯扱いされて白い目で見られたそうです。子供たちに石も投げられたそうです。誰かの代わりに戦っていた兵隊が戦後ひどい扱いを受けるのは悲しいことだと思います。

 

上を見ても下を見ても、同じような青い色で、後ろを振り返ると、まるで白煙が渦を巻いているかのような飛行機雲を曳いている。排気ガスがすぐ氷になるのでしょう。はるか眼下に、三浦半島が箱庭のように小さく見える。ちょうど三宅島が噴火していて、噴煙が見えました。目を北に転じれば日本海まで見渡せ、その向こうには朝鮮半島が見える。日本は狭いな、と思いました。自分一人で高空を漂っていると、生きているのか死んでいるのかもわからなくなるような、不思議な気分でしたよ。

 単独飛行中は生きているのか死んでいるのかわからないという言葉は、星の王子様の作者のエッセイにもあった気がします。飛行機のパイロットの文章は世界共通なのか、職業を通じてしかわからない世界があるのでしょう。星の王子様の作者の最後は飛行機に乗ってそれっきり帰ってくることはありませんでした。零戦パイロットも多くが亡くなっています。いずれにしても、今みたいに快適で安全な空の旅が保証されていない時代の話です。その人たちの積み重ねの上に今があります…戦後生き残ったパイロットたちは、自治体の長になって御巣鷹山の事故処理に当たったり、音楽業界でカーペンターズのプロモーションをしたりとそれぞれが様々な人生を送ったようです。

 

 私の祖父は零戦ではなく「震洋」というベニヤ板の船のような特攻兵器の乗組員だったそうです。はっきり言って見るからに無謀な兵器です。結局、戦地で出動の声はかからず生きて帰ることができました。しかし、戦地で肺に病気をもらって帰ってきて戦後「命を取るか肺を取るか」という状態になって片方の肺を肋骨ごと丸ごと取り障害者と?なりました。幸運な人生だったか、むなしい人生だったかどうかは今では聞きようがありません。ただそれが私の祖父の人生です。他の人とは違って、体の半分が窪んでいて、いつも呼吸が苦しそうだった、それが私の記憶の中の祖父です。祖父が一番かっこよかったときの話です。

祖父たちの零戦

祖父たちの零戦