ねじまき士クロニクル

いちごの味に似ている

永井隆 長崎の鐘

 長崎医科大学長崎大学医学部)の放射線科医だった永井隆による原爆についての手記です。前半は原爆の悲惨な状況、後半はキリスト教に関しての思想が中心に書かれています。

 前半の部分は当時の状況を伝える貴重な資料です。戦火の中の医療関係者の奮闘には頭が下がります。後半のキリスト教に関する部分は読む人を選びます。私は残念ながら選ばれなかった方です。結局永井隆は何が言いたかったのか?他の作品を通して読んでも、本心が見えてきませんでした。原爆を肯定しているという風にしか思えませんでした。キリスト教徒ならばわかるのでしょうか?

 1人のキリスト教徒とその著作を通して見た戦争というものは、自分が今まで知っていた戦争の概念ではありませんでした。戦争に勝ち負け以外の概念、正義と悪の概念が持ち込まれていることくらい知っています。それでも永井隆の思想は私の想像できる範囲を超えていました。しばらくは解消できそうもない、得体のしれない気持ち悪い何かが私の中に残っています。もしも原爆を落とされた側のキリスト教徒の代表的な思考が「罪」を受けたという意識ならば、落とした側のアメリカのキリスト教徒の思考は日本に「罰」を与えたということになるのでしょうか?その後も(本土での)負けを知らないキリスト教国のアメリカは世界に罰を与え続けるでしょうか?「ベトナム石器時代に戻してやる」と発言していたアメリカの将軍の思想は今でも脈々と受け継がれているでしょうか?勝者の思想というものが恐ろしく感じます。アメリカ側のキリスト教徒の記録が残っていても怖くて読めません。

人類は今や自ら獲得した原子力を所有することによって、自らの運命の存滅の鍵を所持することになったのだ。思いをここに致せば、まことに慄然たるものがあり、正しき宗教以外にはこの鍵をよく保管し得るものはないという気がする。

 博士の科学者としての見識は当たっています。ただ原子力の鍵の保管方法については誤っています。博士の考えではキリスト教徒による正しい原爆の使い方によって、広島と長崎が壊滅しています。私は正しい宗教というものは存在しないと考えています。元々の社会に対して何かしらの変革を求める、反社会的な性質を本来含んでいるのが宗教です。宗教に道徳や社会規範を求めるのは幻想であり願望です。宗教に期待するのが間違いです。宗教に代わって正しい理性によって鍵を保管してほしいと願いますが…

 キリスト教徒でもそうではなくても…長崎に縁があってもなくても…日本人なら読まないといけない本なのかもしれません。

長崎の鐘

長崎の鐘