ねじまき士クロニクル

日向の窓にあこがれて

永井隆 この子を残して

この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!

 永井隆は原爆投下前から白血病による余命を宣告されていましたが、後を託すはずだった妻は原爆で亡くなり、2人の子供と残されることになりました。父親として残された時間が少ない中、できる限りの想いを残した遺書のような文章です。ただそれも半分くらいで、もう半分はキリスト教の話です。

 妻を原爆で亡くして、自分も死期が近い。子供は原爆孤児になることが決まってしまっている。それなのに、原爆を祝福するということは可能なのでしょうか?子どもに対する思いに対して素直に共感できるところもあれば、キリスト教に関してはまったく共感できないところもあり読む人を選びます。それでもこれが長崎の被爆直後の代表的なキリスト教徒の見解です。ちなみに私にはまったく理解できません。例えばパールハーバードレスデンや東京への爆撃もキリスト教徒に対してなら神の摂理として神様が許してくれるでしょうか?

一月でも、一日でも、一時間でも長く生きていて、この子の孤児となる時をさきに延ばさねばならぬ。一分でも一秒でも死期を遅らしていただいて、この子のさみしがる時期を縮めてやらねばならぬ。

もう一人の親――母がおりさえすれば、この子も父をあきらめて、その母にとりすがるのであろうに、その母は亡く、母のにおいの残った遺品もなく、面影をしのぶ写真さえ焼けてしまって一枚もない。

 博士の子どもに対する文章は思想信条に関係なく現代にも普遍的に通じる思想です。私は無条件に子供を大切に思うその思想を信じます。キリスト教に関しての思想については、これから理解も納得もできるかどうかは正直言ってわかりません。キリスト教に関しては知れば知るほど、なぜかわかりませんが言いようのない悲しい気持ちになります。

原子爆弾によって私の正しい道をはばんでいた邪魔が取り除かれ、私は真の幸福を味わうことができるようになったのである。

 キリスト教徒の世界観ではキリスト教を信仰していない人間は地獄へ行くと言います。もし神様がいるのなら、私が死んだら地獄へ落として欲しいです。