ねじまき士クロニクル

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ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか 内村鑑三

 キリスト教ではなく武士の家に生まれた内村鑑三(1861~1930)がどのようにしてキリスト教徒になったかの自伝です。『Boys be ambitions』で有名なクラーク博士の札幌農学校に行ったときに半ば強制的に改宗されたことがきっかけで信仰の道に入ったということです。元々は内村鑑三自身によって英語で書かれていたものです。

 周りの環境や先輩たちにより強制的にキリスト教徒にされたものの、その後、紆余曲折を経て確固たる意志をもって信仰の人生を歩んでいきます。

ぼくのキリスト教への第一歩は、意志に反して強制されたものであり、白状すると、それはぼくの良心にも反していた。

ぼくは何度も押し入れに引きこもって、この異教徒の家を救いたまえと救世主に懇願した。洗礼を受けていない魂は地獄で永遠の責め苦を受けるのだと、ぼくは心から信じていたので、家族を改宗させることに全精力を注いだ。しかし、母は無関心で、父は断固反対し、のちに立派なキリスト教徒になった弟はぼくに対してとても挑発的だった。

 改宗してからの思想は代表的なキリスト教徒です。偶像が許せないほどでした。そして、ことあるごとに家族に改宗を迫っています。もしも、私の家族に宗教の勧誘に熱心な者がいたら絶縁します。同様に、儒学に理解が深かった内村鑑三父親も初めのうちは断っていましたが、息子の熱意により最終的にはキリスト教に帰依したようです。と、この調子で熱心に周囲を勧誘していきますがキリスト教徒は増えません。そこでキリスト教の国、アメリカへ行きます。その夢の国で拝金主義、人種差別、治安の問題に直面し悩むこととなります。

彼は五ドル金貨一枚が入った財布をすられてしまったのである! 「異教国と同じようにキリスト教国にもスリはいる」ぼくらは互いに注意し合った。落胆と混乱の中、財布を奪われた兄弟をみんなで慰めていると、年配の婦人が(この人は、後でぼくらに語ったところでは、人類は善人も悪人も、等しく、あまねく救済されると信じていた)、ぼくらの不幸をひどく心配し、ほかにもいろいろ危険なことがあると注意してくれた。スリ、強盗、追いはぎ、その他、罪深い人類のさまざまな犯罪が自分の国にもないわけではない、と。しかし、ぼくらはただ、貴重な五ドル金貨を奪った悪人がけっして天国には行かず、地獄の永遠の業火によって罰せられることを願うしかなかった。

じっさい、キリスト教国で、物を盗まれる危険性が高いというのは、ぼくらにはまったく思いがけないことだった。この国のキリスト教徒のあいだでは、かつて見たことがないほど、鍵が広く使われている。異教国であるわが国の家々では、鍵を使うことはほとんどない。大半の家は万人に門戸が開かれた状態である。猫は勝手気ままに出たり入ったりするし、人はそよ風に顔をなでられながら寝床で昼寝をする。使用人や隣人が盗みを働くのではないか、などとは少しも心配しない。しかし、キリスト教国では事情はまったく異なる。金庫や鞄だけでなく、あらゆるドアや窓、収納箱、引き出し、冷蔵庫、砂糖壺など、何にでも鍵がかかっている。主婦は腰に差した鍵束をジャラジャラさせながら立ち働く。独身者は夕方帰宅するとまずポケットに手を突っこんで、二、三十本の鍵束を引っぱり出し、独りぼっちの部屋の鍵を探す。家は玄関のドアから針箱まで、すべて施錠されている。まるで泥棒の魂が空気中のすみずみにまで浸透しているかのようだ。

 夢の国での失望の経験によって、信仰がある国よりも異教徒が大多数を占める母国日本の方が良い国ではないか、と気持ちが揺れることとなりました。それでもキリスト教に対して疑問を抱きながら信仰を続けます。その後、自分なりのキリスト教観を作っていくことになりました。ここら辺の過程と信仰は三浦綾子などの他の作家と似ているかもしれません…遠藤周作は元々からのクリスチャンなのでちょっと違う気がします。私は信じないない派の立場なのでよくわかりません。

異教徒に生まれたことにはいくつかの利点があるからだ。異教信仰は人間の未発達な段階であり、どんな形のキリスト教が到達した段階よりも、もっと高く、もっと完璧な段階へと発達できると、ぼくは考えている。まだキリスト教に触れられていない異教国には永遠の希望がある。それは先人の誰よりも壮大な人生に向かって冒険に飛び出す若者たちの希望だ。わが国は二千年以上の歴史を持つが、キリスト教に関してはまだ子供である。急速な発展の日々の中にはありとあらゆる未来の希望と可能性が秘められている。そんな日々を数多くこの目で見られることを、とても感謝している。

キリスト教を攻撃する者は、それによって自分の不利を招いている。愚か者以外に誰が岩に向かって突進するだろうか? たしかに、キリスト教だと思いこんでいるものに向かって突進する者もいる。だがそれは、じつはキリスト教ではなく、一部の不誠実な信徒によってその上に建てられた建物にすぎない。

  キリスト教が広まっていない日本で、内村鑑三は信仰を広めようとしていました。初めのうちは何十パーセントも信徒が増えていき『この調子で行けば日本中がキリスト教徒になる』と考えていた時期もあったようですが、信者の数が頭打ちになり悩んでいる様子もありました。内村鑑三が広めようとしたときは布教が解禁されてから間もなかったからかもしれませんが、宣教師が日本に来てから数えて500年くらいが経とうとしていて、日本にこれだけキリスト教が広まっていないことを考えると、キリスト教が根本的に日本人に受け入れられない要素があるような…

 キリスト教に興味がなければ内村鑑三でも他の作品を選んだ方が良いかもしれません。ただ、明治時代の代表的日本人の話として面白いです。この時代には(今も?)最先端の知識を持っていたのはキリスト教の国でした。そのせいもあってか明治時代の知識人は今と比べてもキリスト教に改宗した人が多いような印象です。『武士道』を書いた新渡戸稲造もクリスチャンです。先端の知識を持つ国への憧れと、キリスト教の信者になるということが現世での現実的な利益にもつながっていたのではないかと少しだけ思います。