ねじまき士クロニクル

とある整備士のつぶやき

コーランを知っていますか?

 たぶん大半の日本人は知りません。私もよくわかりません。外国人の方が仏教の経典を読んでも日本人のことは理解できないと思いますが、コーランを読んだらムスリムのことを理解できるかも知れません。と思ってもいきなりコーランを読むのはきついので、阿刀田高の知っていますかシリーズのコーラン編です。

さて、コーランは神の言葉を記したものである。人間マホメット〔正しくはムハンマド〕の言葉ではない。信じようと信じまいとアラーの啓示がマホメットに宿り、それがマホメットの口から語られて、後に記録されたものである。それゆえに人間が考えた哲学ではなく、神自身の言葉なのだ。

 

イスラム教を理解するために必要な、コンパクトな知識として六信五行について触れておこう。六信は文字通りイスラム教徒が信ずべき六つのもの、すなわちアラー、天使、啓典、預言者、来世、そして天命である。五行は信徒が六信を胸に抱いて実践すべき五つの行為であり、信仰告白、礼拝、斎戒、喜捨、そして巡礼を言う。

阿刀田高ムスリムの中で、特に重要なものとして、アラー、コーランマホメット、そして来世(最後の審判)を挙げています。ほぼすべてが日本人にとってなじみが薄いものです。

 

アラーについて

 アラーだけが神である。という認識はイスラム教徒にとって当然のことです。コーランの中では、全知全能、従うものには慈悲深く、背くものには容赦なく、時空を超えた全世界の創造者であり、唯一の支配者であり、最後の審判の主宰者ということです。ムスリムの考えを理解するためには、この認識をはっきりしておく必要があります。そしてイスラム教の認識で言えば、他の一神教であるキリスト教ユダヤ教の神様とアラーは同じ神様です。多神教の神様とは言うまでもなく違います。

 もちろん、偶像崇拝は禁止です。これはキリスト教も一緒です。まぁキリスト教の教会に行けば十字架やマリア像があちこちにありますが、それとこれとはキリスト教の人たちの中では違うのでしょう。とあるクリスチャンと話していた時に、聖書か何かの引用で『偶像崇拝と偽物の神様』というようなありがたい話を聞かされました…私はどうも神様よりも人間に興味があるので、人間が作った偶像や物について考えることが好きなんですけどね…偶像崇拝の禁止ということで、お地蔵様、仏像を敬うことや、何かに魂が宿るという考えはもしかしたら持てないのかもしれません

 

コーランについて

 コーランの各省の第一行目はほとんど『慈悲あまねく慈愛深きアラーの御名において』という文句で始まっているそうです。先程の、世界の創造主、唯一の支配者、最後の審判の主宰者ということを繰り返し伝えています。

 コーランの各省が並べられている順番は時代順でもなく、長さ順でもないそうです。そして、各省のタイトルも内容を表したものではなく話があっちこっちに行っているとのことです。アラビア語で暗唱したコーランは美しいということです。残念ながら私はアラビア語が全く分からないので美しさがわかりません。アラビア語を通して神の啓示を受け取ったということで、厳密に言えば翻訳したものはコーランではないということです。そしてコーランの内容はもちろんマホメットが生きていた時代の背景を色濃く反映しています。

 

マホメットについて

 ムスリムの大前提としてマホメット(570?~632)が最後にして最高の預言者です。それ以前にもモーセやイエスなど神の言葉を伝える預言者はいましたが、マホメットが最後にして正統の預言者です。そしてコーランはそのマホメットに宿った神の言葉です。つまりはイスラム教こそが最後にして最高の教えです。そのため、イスラム教の人たちは『マホメットという預言者が現れたのになぜ未だにキリスト教を信じているのか』という考えだそうです。それなのに、キリスト教は神様ではないキリストをあたかも神様の様に扱っています。ただ、ムスリムマホメットを神様として扱うようなことはありません。あくまでもマホメットは最高の預言者です。

 参考までにマホメットは日本で言えば聖徳太子(574~622)とほぼ同時代の人物です。シーア派スンニ派かという争いはこの時期からすでに始まっています。

 キリスト教はイエスの死後に広まりましたが、マホメットは生前の20年ほどの布教期間でイスラム教の教えを広めることに成功しています。20年間に戦争を経験したり、遷都をしたりその時代背景を学ぶのもコーランを読むのに欠かせません。と私は思っています。ムスリムの人がどう思うかはわかりませんが。 

 

最後の審判について

 阿刀田高によれば、イスラム教にとっての現世は新幹線で言えば東京から小田原くらいまでで、死後の世界がまだまだ博多まで続いているとのこと。むしろ小田原からが本番ということです。コーランも繰り返し最後の審判について伝えているそうです。もちろん、死後の世界から帰ってきた人は今のところいないので実際のところはわかりません。それでも、死後の世界を信じる人にはそれが存在して最後の審判に備えて生きています。

 その最後の審判での天国行きか地獄行きかを決めるのは、唯一神であるアラーを信じたかどうかにかかっています。アラーを信じたか、コーランに沿って清く正しく生きたかが基準になります。最後の審判は、元々ゾロアスター教の概念の様ですが、最後の審判に限らず死後の世界の認識というものは、どんな宗教にとっても必要不可欠な概念なのかもしれません。

 

最後に石油について少し

(第五章〈食卓〉第一一六~一二〇節)の最後に〝彼等の下には川の流れる楽園があり〟という一文がある。楽園の風景を描くとき、川の流れはしばしば強調されており、 ──砂漠の民にとっては、水のあることがすばらしい生活条件なんだろうな── と私たちは理解する。この理解はもちろん正鵠を射ていると思うけれど、一説によれば、この〝下には川の流れる〟は地底のこと、そしてそこに流れるのは石油である、という解釈がないでもない。アラーはあらかじめ、あのあたりの大地の底に豊かなる自然の恵みを用意し、イスラムの繁栄を予定していたのだ、という解釈だ。現下の石油事情を……資源としての石油の価値を考え、それがイスラム教徒の国々に〔すべてではないが〕大きな富をもたらしている事情を考えれば、これが偉大な恵みであることは疑いない。しかし、それがコーランに記されていたとするのは……〝彼等の下には川の流れる楽園があり〟とか、これに類似した記述とかで推測し断定するのは、いささか牽強付会ではあるまいか。アラブの国々を旅していると、ときおり、「石油資源のことはコーランで予言されてますからね」と聞くことがあるけれど、私は与しない。せめて〝黒い川〟とか〝黒い〟のひとことがそえてあれば納得ができるのだが……。

 石油はアッラーからの贈り物という産油国でのムスリムの思想は他の石油に関して書い てある本にも載っていました。確かに資源はないよりかあった方が良いです。それでもいつか石油が必要なくなる時がやってきます。現在の内燃機関(エンジン)に石炭が使われなくなったのは石炭が枯渇したからではなく、社会のシステムにしても内燃機関の発達にしても石炭より石油の方が効率がよくなったからです。その石油が必要が無くなったとき、需要が減った時に、日本と産油国がどうなるのか今から気になって仕方ありません。石油に収入を依存している国々からその収入がなくなったら…そのことを考えている国が果たしてどれほどあるのか…

 そして、ムスリムは教義によって『利子をとること』を禁じられています。資本主義の源泉はもちろん『利子』です。時間を金に換えて、金が金を生むシステムです。資本主義が産業の発展のすべてではありませんが、それが禁止されているので、産業も発達しにくいのかもしれません。仕事よりも神様に祈りを捧げることが優先されている世界です。それでもいつか、そう遠くない未来に、コーランをとるか、経済の発展を取るか、迫られる日が来ると思います。石油での収入は永遠に続くものではありません。どこかの誰かが言っていたように『石器時代は石がなくなったから終わったのではない』からです。

 

 宗教は元々の性質からして閉鎖的な考えを個人に要求するものです。神さまの考えとは言えそれが1000年以上前の思想をそのまま伝えているとしたら…一神教ゆえの排他性ゆえに他の思想との摩擦が避けられないとしたら…

 現代に新しい預言者が現れて、新しい神の言葉を伝えてくれたら…ですが、たぶんこれはその宗教の外側からだからそう思うのであって、信仰している人にはこの思想はたぶん神様に対する最大の冒涜でしょう。

 

コーランを知っていますか(新潮文庫)

コーランを知っていますか(新潮文庫)