ねじまき士クロニクル

日向の窓にあこがれて

地下鉄サリン 聖路加病院の救急医療チーム

地下鉄サリン事件で被害者の最大の収容先となったのは築地の聖路加国際病院

 『サリン』という情報もなく、原因不明の患者が多数運ばれてくる中、院長の日野原重明は患者を全員受け入れ、一人も断らないことを決断。外来はすべて中止する。手術もすべて中止にする。すべてのスタッフを招集する。という決定を行った。

  聖路加病院は1992年に改築、近代的なデザインに生まれ変わった。医療用以外の空間が広く確保されていて、広々とした玄関と幅広の廊下、コンサートが開催できる礼拝堂すらあった。設計したのは院長である日野原重明、病院の理事会には設計を反対されたが院長は意見を通した。医療用以外での空間の確保は、東京大空襲の時に押し寄せてくる患者を病院に収容することができずに、野外で多数の人が亡くなっていたという体験が基になっている。

「空襲のときの、患者がどっと入ってくるという経験があるからね。戦争がまた起きるかもしれないし、地震や火事なんかの大災害のときにだって同じことが起こる。そのときにも対応できるような備えを病院はしておかなければいけないと、ずっとそう思ってきたんですよ」

 そして、改築に伴って救急専門外来の創設も行っていた。その改築を行った聖路加病院の救命センターに地下鉄サリン事件の多数の患者が運ばれてくることになった。

 原因がわからない意識不明の多数の患者が運ばれ、時間とともに症状がどんどん悪化していく。サリンは、ナチスの化学者が開発した神経ガスであり、松本サリン事件を除けば、もちろん日本では馴染みのないものだった。それでも、救急センターの責任者にはサリンかもしれないという直感があった。しかし解毒剤を投与する決心は出来なかった。サリンに効くかもしれない解毒剤のパム自体に副作用があった。その時、信州大学の医師から電話があり、サリンの可能性と松本サリン事件での治療の方法と結果を説明した。そして聖路加病院で解毒剤であるパムの投与を決定。重体の患者が息を吹き返すことができた。

 ただ、その解毒剤であるパムは元々農薬中毒に対する薬なので、病院に在庫があまりなかった。パムを製造していたのは大阪の住友製薬のみ、住友化学が有機リン農薬を製造していたことに対し、社会的な責任としてその解毒剤を細々と製造していたという状況だった。要請を受けて、全日空が大阪から東京への輸送を快諾、それと同時に名古屋の医薬品卸の『スズケン』が各地のパムを集めて新幹線で東京に送った。

 

 異常な状況の中で、聖路加病院の医療関係者の方々は緊急事態に対応していました。その一方、駅では職員の方に対して、乗換案内や遅延証明の発行を求めて乗客が殺到。病院では家族が搬送されていないか、確認の電話が殺到。体調不良を感じながらも、無理をして仕事に行こうとしていた人、仕事に行った人も多数います。

 東日本大震災での東京での混乱ぶりを見る限り、今もしも同じような緊急事態があっても、地下鉄サリン事件を教訓として行動できるかどうか、緊急時に対応できるような社会になっているかどうか…地下鉄サリン事件から20年以上が経っていても、日本の社会はそれほど変わっていないのかもしれません。