ねじまき士クロニクル

日向の窓にあこがれて

村上春樹のアンダーグラウンドを英語で読む

 kindleの英語版はやめた方が良いです。日本語の原典とかなり印象が違います。少なくとも外国の方にはお勧めできません。kindle版での話なので、英語の本についてはわかりません。英語の文章自体は、日本語の『アンダーグラウンド』をちらちら見ながら、TOEIC600点ない私でも読むことができました。

 日本語の『アンダーグラウンド』は未だに解決されていない、地下鉄サリン事件を考える際に欠かせない資料だと思います。事件が発生してから20年以上が経ちますが、被害者の方の当時の生の声を伝えるこの本は貴重です。私は同じ年に発生した阪神大震災は住んでいた家がかなり揺れたこともあり、はっきりと覚えています。その一方、地下鉄サリン事件のことはほとんど覚えていません。

 ただ、英語版は誤訳と省略がひどいです。村上春樹の英訳された作品でも所々省略されている個所を見つけたことがありますが、その比ではありません。この『アンダーグラウンド』の英語版では、多くの人々のインタビューが大人の都合によるものなのか掲載されていません。

 

精神科医 中野幹三、弁護士 中村裕二、島田三郎、武田雄介、中島克之、平中敦、吉秋満、片山博視、松本利男、三上雅之、平山慎子、時田純夫、内海哲二、橋中安治、長浜弘、石原孝、早見利光、片桐武夫、仲田靖、伊藤正、安斉邦衛、初島誠人、金子晃久、大沼吉雄、石倉恵一、杉本悦子

 

 これらの方々のインタビューは載っていません。英語版で掲載されていない医師はサリン事件の際、多数の患者を受け入れて大きな役割を果たした聖路加国際病院精神科医長です。弁護士は坂本弁護士と同期の方です。そして掲載されていない乗客の多くは日本語版では日比谷線(北千住発行き)以降に掲載されていた人たちです。

 インタビューを受けた方が、英語に翻訳されるのを拒んだのか、出版社の事情なのかは分かりません。作者の村上春樹は被害の大小に関わらず、地下鉄サリン事件で様々な個人的な背景を持った市井の人々が何を見て、何を体験し、何を感じたのか?そしてどんな影響があったのか?ということを知りたいと思い、このインタビューを行ったと始めに書いています。それなのに英語版では、その個人的な背景が省略されています。

人と接しているのが大好きな性格で、一人では喫茶店にも入れない。ましてや「一人暮らしなんか寂しくてとてもできない」ということだ。

東京生まれの東京育ち。奥さんと子供が一人。見かけは若々しく、とても五五歳には見えない。

後遺症だと言われるから、ますます落ち込んでしまうんです。それよりはプラスにものを考えて克服していこう。少なくとも自分はこうして生き残ったんだから、そのことに感謝をしていこう。

趣味と言いますか、今は絵を描いたり、版画を彫ったりしています。うちの裏にプロの絵描きさんが住んでいまして、通って教わっているんです。夜暇なときとか、週末とかには絵を描いていますね。水彩を描くことが多くて、風景画、静物画が好きです。ひとりでのんびりとそういうことをしているのが好きなんです。絵の仲間と話をしたりするのも楽しいです。エビの話はしたくないですね。

痴漢もね、たまにいます。嫌なものです。

末の娘さんも通勤途中、たまたま同じ時間の同じ日比谷線の電車に乗り合わせていたのだが、幸いなことに車両が違って、被害はなかった。

三人の息子と、二人の娘を持つが、全員が結婚し、マイケルさんの家から一〇マイル以内の場所に暮らしている。家族はとても仲が良くて、「僕の家がまるで本部みたいな感じになっているんだ」と言う。孫は二人いる。

 例を挙げたのは省略されているほんの一部です。インタビューの最中に村上春樹がしていた質問でさえ容赦なく省略されています。むしろ完全に訳されている人がいたかどうか怪しいです。こんな細部は必要ないと思うかどうかは読者次第ですが、私は絶対に必要だと思います。むしろ

人と接しているのが大好きな性格で、一人では喫茶店にも入れない。ましてや「一人暮らしなんか寂しくてとてもできない」

 そんな女の子が地下鉄サリン事件でどのように行動して何を体験したのか伝えたかったのではないかと思います。JRで働いたことがあるというこの女の子の話を、JRに勤めている自分の友人に重ねて読んでいました。そして、この女の子の話を読んで何かあった時のために『赤いハンカチ』を持ち歩こうと思いました。個人的な背景がなかったらそこまで関心が持てなかったかもしれません。

 また、掲載の順番が日比谷線(北千住発行き)から、日本語の原典と比べて、かなり変わっています。その時点で日本語と並行して読むのを諦めました。

 一例ですが、英語版の最後では牧田晃一郎さんの話が和田さんたちの話よりも後に来ています。和田さんはインタビューを受けている方の中で唯一亡くなっている方です。原典では和田さんのご家族と奥さんの話が最後ですが、英語版ではなぜか和田さんの後に、牧田さんが掲載されています。そして最後に医師が二人続きます。これはかなり違和感がある変更だと思います。これだけでも読後の印象がかなり違いました。日本語の原典では明らかな意図があって和田さんの話を最後にしているはずです。

 日本語版と英語版で副題が大幅に異なっている人もいます。そこにどんな意図があるのかは私にはわかりません。とりあえず原典である日本語版を重視するべきだと思います。インタビューを受けた方がどんなことを一番訴えたいのか、村上春樹が読者にどんなことを一番伝えたいのかが、そこに込められている意味を普通は考えますが…

「I kept shouting, Please,please,please! In Japanese」(英語版)

「僕はその娘さんを抱えて、なんとか改札口へと急いだ。よろよろとつまずきながら」(日本語版)

 騎手のマイケル・ケネディーさんの話ですが、文章の始めの印象が違えば、読者の意識も変わってしまうかもしれません。

 誤訳もあります。

日比谷線で寺島登さんという方がインタビューを受けていますが、英語版ではNoburu Terajimaとなっています。日本語の振り仮名がないので確実とは言えませんがおそらくテラジマノボルさんだと思います。英語ではテラジマノブルさんになっています。

 他にも、丸の内線(荻窪行き)の状況説明で

二〇日未明、上九一色村でおこなわれた実地訓練では、廣瀬は袋を強く刺しすぎて、傘の先を曲げてしまった

 という文章がありますが

After twenty days of training at Kamikuishiki Village, Hirose finally poked so hard with his umbrella that he bent the tip.

 英語版ではこのように翻訳されています。『二十日未明』が『二十日間の訓練の後』と訳されています。致命的なミスです。

 オウムがサリンを地下鉄に撒くと決めたのは直前の3月18日と一般には言われています。事件の重要な部分なのにこれはかなりひどいです。

 

 そして村上春樹のあとがきについても当然のようにカットされている個所があります。

この地下鉄サリン事件については、政府が早い機会に各分野の専門家を集めて公正な調査委員会を組織し、隠された事実を解明し、周辺システムの徹底的な洗いなおしをはかるべきだと思う。何が間違っていたのか、何が組織の正常な対応を阻害していたのか? そのような事実的追究を厳しく綿密におこなうことこそが、サリン・ガスによって不幸にも命を落とされた人々に対して、私たちが払いうる最大の礼儀であり、また切迫した責務であるだろう。そしてそこで得られた情報は、部門ごとに密閉されるのではなく、世間に広く公開され、共有されなくてはならない。それがなされない限り、同じような体質の失敗がまたいつか繰り返されるおそれはある。

 私たちはこの巨大な事件を通過して、いったいどこに向かって行こうとしているのだろうか? それを知らない限り、この地下鉄サリン事件という「目じるしのない悪夢」から、私たちは本当には逃れることができないのではないだろうか。

 もしかしたら要約版を買ってしまったのかもしれないと勘違いしそうになるほど、あまりにも省略されている個所が多いです。その代わりなのかこのkindleの『アンダーグラウンド』の英語版には『約束された場所で』の英語版もセットになっているみたいですが…

 世界各地でテロが発生していることもあり、日本で起きたテロ事件について、再読しようと思い、ついでなので英語で読みました。読んで見た結果、『アンダーグラウンド』を日本語で読めない外国の方にはお勧めできません。やめた方が良いです。kindle版の英語のことなので、英語の本ではこうはなっていないことを願います。

 

Underground: The Tokyo Gas Attack and the Japanese Psyche (Vintage International)

Underground: The Tokyo Gas Attack and the Japanese Psyche (Vintage International)

 

 kindle版はこれです。注意してください。

 

nejimaki96296.hatenablog.com