ねじまき士クロニクル

日向の窓にあこがれて

暁の旅人

暁の旅人は幕末の医家、松本良順(1832~1907)の物語です。

 医学や工学など最先端が求められる科学分野において、過去の遠い遠い昔の歴史を学ぶ必要が果たしてあるのか?当時、流行していたコレラの原因も分からず、まだ医師による人体の解剖が一般的ではなかった時代の日本の話です。

 多くの価値観が揺れ動いていた幕末で、医学も時代の流れに無関係でいることはできませんでした。そこには当然鎖国政策も絡んできていて、幕末と言えどもまだまだ西洋の医学は公認されていない状況でした。保守的な漢方医学と革新的な西洋医学の間で幕府も揺れ動くことになります。その中で、松本良順は長崎へ向かい、医学の師であり友人にもなるポンぺと出会い、日本の西洋医学の発展を切り開いていきます。

 元々、西洋医学に興味を抱いて江戸でオランダの医書を学んでいた良順でしたが、書物の背景である実際の医術に興味を持ち長崎行きを願います。そして他の藩からの医師とともに長崎でポンぺの講義を受け始めます。しかし、オランダ語書物を通じて知っているとはいえ実際の講義を理解するのは難しく通訳を介して行われました。しかし、専門用語が多いためかそれでも講義は進まず、四苦八苦しながら西洋の知識を身に付けていくことになります。

はじめ医生たちは、オランダ書を通じてオランダ語を知っているとは言え、それは文法にかぎられていた。ポンペの口にする言葉を西が通訳するが、一方通行にひとしいもので、答えることができない。それに西も初めて耳にする医学用語が多いらしく、額に汗をうかべてポンペに何度もただし、自信がないらしく首をかしげることもある。言葉の壁が、大きく立ちはだかっていた。講義は、毎日午前と午後に一時間半ずつ計三時間おこなわれたが、ポンペにも良順たちの表情にも苛立ちの色が濃かった。いたずらに日が過ぎ、ポンペは西と話し合った結果、良順をはじめ医生たちにオランダ語の会話の勉強をさせることが先決だという結論に達し、良順もそれに賛成した。

 

初歩的な日常会話からはじまり、西の助力も得て、かれらはオランダ語を口にし、教師がその度に発音を直す。医生たちには初めてのことで、かれらは熱心にまなび、授業が終ってからもオランダ語で言葉を交し合ったりしていた。

 日本は、西洋から知識が入ってくるまで、人体を解剖しての医療技術の向上に努めることはありませんでした。切腹や斬首が公に行われていた日本で、医師によって解剖が行われるのがタブーだったというのはなんとも不思議な気持ちがします。伝統的な価値観というものについて考えさせられてしまいます。

 東洋医学を頑なに信じていた日本と、実際に人体を解剖した経験を重視していた西洋医学。どちらが、現在の医療技術の向上に貢献しているか、現在の価値観で過去を評価することは簡単です。しかし、どのようにして新しい西洋医学という物が受容されていったのかということを松本良順という一人の医師を通して知ることができます。 

ポンペの授業は、各課目の順序にしたがって推し進められていたが、ポンペは良順に、死体解剖が絶対に必要だということをしきりに口にするようになっていた。

日本では、腑分けと称された人体解剖は古くから極悪非道の行為とされて公許もされていなかったが、百五年前の宝暦四年(一七五四)、京都で侍医をつとめていた山脇東洋が、初めて腑分けによる内臓の実見をこころみた。人体の構造を知りたいという強い願いによるもので、刑死人の遺体を牢屋敷の雑役がひらき、それを凝視した東洋が記録して「蔵志」という書物にまとめて公刊した。

東洋が初の腑分けをしてから十七年後の明和八年(一七七一)、杉田玄白、前野良澤らが、江戸の小塚原で女の刑死体の腑分けをおこなった。その折には長崎から持ち帰ったオランダ語訳のドイツ解剖書と内臓、骨格を照合し、その解剖書が正確であることを知って、かれらはその書の和訳に取り組み、それが「解体新書」として公刊された。良順も、その書物を眼にしていた。 

ポンペは奉行所に解剖の実施をしきりに懇請し、ポンペの意をくんだ良順は、それを実現させるため精力的に動いた。その要請を受けた奉行所内では、激しい議論がまき起った。それまでの腑分けは、医家が直接手をくだすことは決してなく、処刑した獄舎の雑役が刀で体を開き、各臓器その他を医家にしめすのが仕来りであった。しかしポンペは、医生たちに医術を教授する必要から、自ら刀(メス)をにぎって人体を切り開き、その構造、器官を説明するという。これについて役人たちは、解剖する者が日本人であるならば、まだ許せはするが、外国人のポンペに体を開かせることは決して許しがたい、と反対した。

牢屋敷では、八月十三日、刑を執行する者が二人いることを奉行所に伝えた。

牢屋敷にもどされた囚人二人は、穴のうがたれた前に引き据えられ、つぎつぎに斬首された。解剖することがきめられていたのは平三郎で、窃盗を二度にわたっておかし、重敲の上、腕に入墨を入れられて解き放たれたが、またも長崎寄合町のあや宅に忍び込み、衣類四点を盗み、それらを換金して飲食に使い果たした。その犯行が発覚して前年の十二月七日に入牢し、吟味の末、死罪の申渡しを受け、その日、執行されたのである。

刑死人の遺体は、野捨て同様に町のはずれの人気もない墓地に埋められるのが常であったが、良順は奉行所の許しを得て平三郎の骨壺を寺の墓地に埋葬し、石塔も建てた。翌日は曇天で、やがて雨が落ちてきたが、本蓮寺と皓台寺で法要が営まれ、牢屋敷の囚人たちに百個の数の葬式まんじゅうがくばられた。牢役人は、平三郎にあたえられた戒名を紙に書きつけて貼り出し、寺に永代供養料が払われたことも囚人たちにつたえた。囚人たちは平三郎の遺体が懇ろに供養埋葬され、戒名まであたえられたことに感激し、一斉に伏して牢役人に手を合わせた。これによって囚情は一変し、もしも死罪の刑を受けたら自分も腑分けして欲しいと言う者すらいた。

 幕末の動乱の中で、松本良順も時代の流れに巻き込まれることになります。幕府の奥医師という立場から会津戊辰戦争に加わります。しかし、江戸幕府の最後の最後まで幕府に忠誠を誓いながらも、周囲の勧めもあり戦場を離れます。そして今度は人生の最後まで、日本の西洋医学の夜明けを旅することになります。

 ここからは本とは関係ありませんが、日本では医療が発展し過ぎて様々な問題が引き起こされています。その一方、世界ではいまだに満足な医療が受けられない国があります。確か池澤夏樹が『乳幼児死亡率の差はそのまま子供の命の値段の差』と、どこかの本の中で語っていたと思いますが、まさにその通りだと思います。世界中の国で働く医療関係者によって、死ぬ必要のない病気で死ぬ子供がいなくなるような「夜明け」が来ることを願っておきます。

 

暁の旅人 (講談社文庫)

暁の旅人 (講談社文庫)