ねじまき士クロニクル

とある整備士のつぶやき

小泉八雲から学ぶ神道

 小泉八雲は『日本の面影』の中で仏教神道に関して述べています。私が今まで読んできた神道に関する文章の中で最も共感した文章です。少し長いですが引用します。

仏教は、何世紀もの時の流れに姿を変えつつ、あるいは徐々に衰退しつつ、ついには、元々、外来宗教として伝来してきたこの日本から、姿を消す運命にあるのではないかと思われる。

 

 

仏教には、膨大な教理と深遠な哲学があり、海のように広大な文学がある。神道には、哲学もなければ、道徳律も、抽象理論もない。ところが、あまりにも実体がないことで、ほかの東洋の信仰ではありえなかったことであるが、西洋の宗教の侵入に抵抗することができたのである。

 

神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、どうしてもつき崩せない牙城でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕らえることのできない、神道という存在に舌を巻くしかないのだ。実際に優秀な学者であれ、神道とは何たるかを、解きあかすことはできなかった。神道を単なる祖先崇拝だとする者もいれば、それに自然崇拝が結びついたものだとする者もいる。神道とは、およそ宗教とは定義できないとか、無知な宣教師たちには、最悪の邪教だとか言われたりもした。神道を解明するのが難しいのは、つまるところ、西洋における東洋研究者が、その拠り所を文献にのみ頼るからである。つまり、神道の歴史を著した書物や『古事記』『日本紀』、あるいは「祝詞」、あるいは偉大な国学者である本居や平田の注釈本などに依拠しすぎたせいである。ところが、神道の真髄は、書物の中にあるのでもなければ、儀式や戒律の中にあるのでもない。むしろ国民の心の中に生きているのであり、未来永劫滅びることも、古びることもない、最高の信仰心の表れなのである。

 

したがって、神道をわかろうというのなら、その日本人の奥底に潜むその魂をこそ学ばなければならない。なにしろ日本人の美意識も、芸術の才も、剛勇の熱さも、忠誠の厚さも、信仰の感情も、すべてがその魂の中に代々受け継がれ、はてには無意識の本能の域にまで至っているのである。

 

 日本という国と『恋』していたほど八雲は熱烈な日本びいきであり帰化する前から日本人以上に日本人な人物なのですべてをそっくりそのまま真に受けるわけにはいきません。しかし、外からも中からも日本という国を見た人ではないとわからないこともあったのではないかと思います。実際、日本の中にしかいない私にとって神道がどのようなものなのか外国人に説明するのは難しいです。八雲の考えを借りてですら説明することは難しいです。

 神道があったから日本はキリスト教の国にならなかったかどうかはわかりませんが、隣国の韓国はキリスト教が盛んです。中国でも少なからずキリスト教は普及してます。儒教の教えだけではキリスト教に対抗できなかったのかもしれません。日本の例を挙げると、江戸時代の長崎の隠れキリシタンの信仰は、鎖国中の時間を経て元々のキリスト教とは変わり、先祖崇拝も行う神道仏教と混じったような信仰になったそうです。先祖崇拝が強すぎてキリスト教も日本流の多神教の一つになってしまった様です。

 いつかキリスト教(西洋)ではない価値観が世界で必要になるかも…しれません。もしくはやっぱり必要にならないかもしれません。失われつつありますが、神道というか日本の思想というか理念のようなものに世界が『目覚める』までこっそりと伝統の文化や考えを絶やさないように受け継いでいきますか。