ねじまき士クロニクル

日向の窓にあこがれて

走れ 魂のバイク

 たまにはバイクとかそういった本も読まないと…

 「魂のバイク」と言いながら本の冒頭は飛行機に憧れた男の話です。飛行機に憧れて、戦時中は航空機関士として任務についていましたが、戦後オートバイの世界へ…

〝地獄〟は、一九四五(昭和二〇)年四月に訪れた。命じられた特殊任務は、「神風特攻隊」の先導飛行。片道分の燃料を積んだ特攻機を操縦するのは、若くて未熟なパイロット。夜間、彼らを敵艦隊の上空まで誘導し、決死の体当たりを見届けて帰ってくる。

 NHKお墨付きの、プロジェクトXの本ですが間違っています。飛行機に片道分の燃料しか積まないということはあり得ません。敵が発見できなかったら何度も戻ってきています。そして、戦時中に作られた零戦は1万機そこそこです。当時は人の命よりも飛行機が貴重だったと言ってもいいかもしれません。とは言ってもこれは零戦に関する本ではありません。飛行機とバイクの加速感はよく似ていると言いますが…これはバイクに乗っている人ならば誰もが知る「ヨシムラ」の物語です。

一九六四(昭和三九)年。二年前に完成したばかりの鈴鹿サーキットで、市販車による本格的な耐久レース『MFJ鈴鹿一八時間耐久レース』が開催された。レース用に開発されたマシンではなく、改造市販車で競われるレースに、吉村はプライベートチームをつくってエントリーした。「九州に吉村あり」といわれるまでになっていた自身のチューニング技術だが、その評価は主に〝草レース〟での勝利から得たものでしかない。本格的なサーキットで開催されるレースで、どこまで通用するか――。腕試しのつもりで出たレース。スタートから桁外れのパワーを見せつけた。それまで中央のレース界では無名に等しかった吉村のマシンが、メーカーが率いるチームのマシンを寄せつけなかった。一八時間で三一一周、二位に七周もの差をつけた圧倒的な勝利だった。そして、日本一という実績は、吉村を新たな勝負の世界へと導いた。レースから数日後。九州の吉村モータースを訪ねてきた男がいた。「わが社のバイクを改造してもらいたい」  差し出された名刺には、『本田技研工業』(以下ホンダと記す)という社名と、『GP局長』という肩書きとが記されていた。

 個人的にですが、カスタムに関しては「ヨシムラ」の部品は最高です。私も自分のSR500にヨシムラの部品(キャブだけ)を組んでありますが、ノーマルとはまるで違います。単気筒の500㏄でキャブとマフラーを交換しただけなのに160㎞程出ます。メーターを振り切ります。ただ足回りが前後ドラムなのであまりにもプアです。ディスクに交換するためのワイズギアのフォークとキャストホイールのセットを昔買いましたが。未だに交換できていません…SR用のヨシムラのカムも買っていますが、未だに交換できていません。エンジンを降ろして塗装するときにしようと思っています…

奇跡の部品・集合管 アメリカでのビジネス――吉村には〝勝算〟があった。エンジンから伸びている排気管。四気筒エンジンなら、四本のパイプが車体後方に突き出ている。これを一本に束ね、排気効率を上げる。名づけて「集合管」。原理を説明するときに、吉村は排気ガスを一升瓶の中に入った水にたとえた。一升瓶の口をただ下に向けるよりも、瓶を回転させたほうが、中の水が渦を巻いて速く外に出る。その渦を人工的に生み出せれば、排気効率は飛躍的に高まる。開発に、約半年間を費やした。四本のパイプの長さと形状を微妙に変え、排気ガスの流れを生み出し、最終的に一か所の排気口から勢いよくガスを排出する。集合管は、すでに四輪車では試みられていた技術だったが、二輪車で実用化したのは吉村が世界で初めてだった。

 そしてマフラーです。ここはもう好みの問題です。4本出しがいいか集合管がいいか…最終的には気分によって付け替えるのがいいですね!!

儲けることは、吉村の眼中にはなかった。見えていたのは、〝ヨシムラ〟の部品を装着したマシンが世界のバイクレースで活躍するという大きな夢だった。その夢に向かって、着実に近づきつつあると、吉村は感じていた。一九七三(昭和四八)年八月、吉村がチューニングした〝カワサキZ1〟は、アメリカ・ボンネビルで開催された「スピード記録大会」に参戦。二五六・三二キロの最高速記録など、計八つの世界記録を樹立。〝速さ〟は、〝ヨシムラ〟の代名詞になろうとしていた。しかし、この時点で吉村は、もがいてももがいても脱出不能な大きな蟻地獄に、すでに足を踏み入れていた。

 「Z1」とは1973年当時の世界最速のバイクです。世界最速のオートバイを目指してカワサキが作ったバイクです。750㏄までという国内の規制により900㏄という排気量では日本では販売することができませんでした。50年近く前のバイクですが今ではプレミアがついて初期型で状態がいい車両なら200万から300万で取引されています。しかし…世界最速だったのは1970年代初めの話です。市販のカスタムされていない状態のZ1では足回りがふわふわして200㎞は厳しいです。いやそもそも180㎞出るかどうか…かたや現代の400㏄の代名詞ともいえるCB400SFではちょっと頑張れば鼻歌を歌いながらでも180Kmです。今では、大抵のリッターバイクは規制されていなければどれも300㎞出るので、現在の世界最速のバイクは何か私にはわかりません。

 それでも先に述べたように「Z1」はそのスタイルと「世界最速だった」というステータスから今でも絶大な人気があります。実際にこの「Z1」というオートバイがなければ日本の二輪業界はこれほど世界で信用を勝ち取っていなかったかもしれません。「スーパーカブ」も良いバイクですが、世界を目指すには2位じゃだめで「世界最速」を目指さなければいけませんでした。実際に4輪の世界では国産メーカーが外国メーカーとシェアを凌ぎ合っていますが、2輪の世界では日本車は圧倒的なシェアです。

 ですが、商売にも成功していたホンダなどとのメーカーとは違い、ヨシムラは共同出資者に裏切られてしまいます。

九七四(昭和四九)年五月。吉村はロサンゼルスに降り立った。すぐにアレキサンダーを訪ねた。そこは、半分は自分が出資した会社だった。入り口には、見慣れた〝ヨシムラ〟のロゴが掲げられている。「もう、ここしかない」吉村は思った。渡米前に日本の工場は売り払った。帰る場所はない。アレキサンダーの姿を見つけると、吉村は挨拶も早々に詰め寄った。部品の代金の未払いは、すでに二〇〇〇万円にも膨れ上がっていた。最初にやらなければならない仕事は、その精算だった。ところが、アレキサンダーは平然とした態度で、衝撃的な言葉を返してよこした。「もう、金は使った。支払えない」長男の不二雄の報告どおりだった。アレキサンダーは、吉村に無断で工場の設備投資に金を注ぎ込んでいた。そして自身は高級車を乗り回している。自分がだまされ、利用されていたことを、吉村は認めざるを得なかった。「代金が払えないなら在庫を返してもらう」  吉村は倉庫に向かった。すると、いきなり銃を突きつけられた。「一歩でも中へ入れば、撃つ」自分の会社にも、自分がつくった部品にも、手出しは一切できなかった。『ヨシムラ・レーシング』は、事実上、乗っ取られていた。

 それでも、娘婿のモリワキさんに助けられながら再度アメリカ行きを決意します。バイクに乗っている人ならば誰もが知っているあのモリワキさんです。

二人は、吉村を三重県鈴鹿サーキットの近くに連れていった。小さな町工場があった。そこは、森脇が用意しておいた、「おやじが帰ってくる場所」だった。おやじは純粋で、商売っ気がありませんから、現地の人間と手を組んでも、いいように利用されてしまうんじゃないかという心配はしていたんです。全財産をなげうってアメリカへ行くと言われたときに、自分と南海子がいっしょに行ったら、いっしょに終わってしまう可能性もあると思ったんですよ。だから勘当されても、別々にいたほうがいいと思ったし、自分たちがやるべきことは、おやじがひたむきに築き上げてきた〝ヨシムラ〟の魂を守ることだと思ってましたからね」(森脇)南海子は言った。「お父さん、もう一度、ここからやり直しましょう」吉村は、うなずいた。が、口から吐かれた言葉に、南海子はあ然とした。「もう一度、アメリカで勝負させてくれ」

 今のヨシムラを見ればレースの結末はわかると思います。数ある社外メーカーのカスタム部品のうち、純正の状態から何も考えずに部品を交換して性能が上がる物はごくわずかです。カスタム部品の中にはもちろん粗悪品もあります。特に新車を買って一度も乗らずにいきなりカスタムする人は基準を知らないため要注意です。何にせよ売られている状態をとりあえず確かめてからカスタムすることをお勧めです。純正のアフターパーツやヨシムラのパーツは明らかに質が違います。部品の質や配線に至るまで考えられています。(たまに考えられていない純正部品もありますが…)

 速度に関する、私の実体験はサーキットやダイナモの中の話です。各地の高速道路などで間違っても試さないでください。今ではほとんどバイクに乗っていませんが、もうちょっと季節がよくなったら小さい原付でそこら辺の島をぶらぶらしますか…

 

お互いにめざしていたのが、レースで勝つということだった。二位になるくらいならレースに出る意味はない。

 技術の分野では2位じゃ駄目です。世界最速のオートバイだったということに意味があります。

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