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三毛別ヒグマ事件と箱根のエース

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 これは私が何年か前に北海道苫前の三毛別ヒグマ事件跡地に行った時のただの思い出です。バイクの免許を取った時から、北海道へバイクで行くと決めていました。バイクの免許を取ったら「北海道行きたいなぁ…」「九州行きたいなぁ…」と言い続けて結局行かない人が多いですが(私調べ)私は絶対に行くと決めていました。

 しかし、いざ北海道へ行くと決めても、目的地は特に決めていませんでした。

 青森からフェリーを使うこと、8月中に宗谷岬に行くこと、そして「三毛別ヒグマ事件」の現場へ行くこと。北海道へ行く際にあらかじめ決めていたのはこの3つだけでした。

 三毛別ヒグマ事件とは1915年に起きた日本史上最悪の獣害です。冬眠に失敗した一頭のヒグマに7人が殺された事件です。バイクに乗る人ならだれでも使うツーリングマップルという地図の北海道版を見た時から必ずここには行こうと決心していました。B級のマイナースポットと言っていいかもしれません。それでも、何かひきつけられるものがありました。

 いざ行ってみると、事件現場付近は真夏の昼間なのに、馬鹿でかいヒグマの模型もあり妙に味悪い空気が漂っていました。この事件は『熊嵐』という小説にもなっていて、この獣害が契機となって、一人、また一人と地域を去っていき結局は無人の地になったそうです。小屋にあった思い出を書き記すノートにも「来るんじゃなかった」「早くここから立ち去りたい」「想像以上に怖い」「本当に熊が出そう」などの言葉が並んでいたのを覚えています。現場は実際にヒグマが出るということです。私はいざというときに備えてバイクのキーは差しっぱなしにして現地を見学していました。始動方法がキックしかないバイクだったのでキーが刺さっていてもいざとなったらすぐには逃げられなかったんですけども。

 箱根駅伝はその選手に出会うまでは特に好きではありませんでした。知識も全くありませんでした。それなのに、子供の頃に名前を憶えていた箱根駅伝の選手が一人だけいました。法政大学の徳本選手。私がまだ純粋な心を持っていたころ、その年(2002年)の箱根最速の男ということで徳本選手の地元の広島県では大きく報道されていました。派手な風貌と今でいうビッグマウスな発言、そんな人がどんな風に走るんだろうかという興味もあり箱根駅伝を見ていました。結果は史上最短、往路2区での故障リタイア。しかし…故障しながらもたすきをつなげようと、監督が駆け寄ってきていたのを必死に制して、避けるように前進していた姿はずっと心に残っていました。とんでもない選手だと子供ながらに思いました。

 私が三毛別ヒグマ事件の現場で出会ったのはその徳本選手ではなく、徳本選手より学年が一つ下のエースです。徳本選手が棄権したことによって、つながらなかったたすきを待っていた翌日の復路のランナーです。

  薄暗い熊が出そうな森の中を独りで物思いにふけっていたら、遠くから2stバイクの音が聞こえてきました。独りの時間を邪魔されて残念な気持ちと、心細かった時間が解消された嬉しさを今でも覚えています。バイクの方が来るのを待っていたら、思っていたよりも小さなバイク。バンバン80という今はもう生産されていない小さな古いバイクでした。挨拶を交わして二人で現場を見て回りました。「悪路をバンバン走るからこのバイクは『バンバン』って言うんやで」「ハーレー乗りだったら声かけんかったわ」関西出身の方らしく気さくに話しかけてくれました。私も「大きなバイクに乗っているよりも小さなバイクに乗って旅している人の方が好きですよ~」と答えていました。一言で言えば馬が合ったのでしょう。

 現場を後にして一緒に地元の郷土資料館に行きました。ここでは実際に生息していたヒグマのはく製も展示してありました。夏休みも最後の最後の日に行ったものだから館内は人がおらず、受付の女性と私たち旅人二人だけでした。この女性に話を聞いてみると、なんと、三毛別ヒグマ事件に出てくる登場人物の縁者の方でした。

 それから、バンバンさんは天売島へ、私は8月中の宗谷岬到着を目指して稚内へ向かいました。その後、主に道東での合流と解散を繰り返し親交を深めていきました。その時にお互いの身の上話になり、バンバンさんが箱根駅伝のランナーだったことを知りました。

 本州に戻ってからも交流は続きました。私が関西で働いているときには一緒に若狭まで走りに行ったり、お互いの家に泊まりあったこともあります。結婚の報告も受けました。箱根のランナーさんが走っている姿をTVで見た奥さんが手紙を送ったのがなれそめということでした。長崎の水族館でペンギンに祝福されなれながら式を挙げている姿をネットの記事で見ることができました。しかし、あるとき私が不覚にも携帯を紛失してしまい、データが飛んでしまいました。バックアップや紙の手帳などを利用する文化は残念ながら当時の私にはありませんでした。地元の人や誰か共通の知人がいるならば時間がかかりますが連絡先を知ることはできます。しかし、わたしと箱根のエースさんはお互いだけの関係です。残念ながらその時から連絡は途絶えてしまいました。それでも、漠然とした気持ちですが、いつかまた会えるような気がしています。

 

 最後にその箱根のエースに対して私が聞いた言葉です。

 「長距離走るのは辛くないんですか?」

 「辛いよ。できることなら走りたくない。練習もしたくない。歩くのは好きやけど」

 一度は故障で引退したと聞きましたが、走るのを辞められないのか地元で競技を続けているみたいです。

写真は北海道苫前町のHPからです。北海道の写真のデータも紛失しています…

 

羆嵐 (新潮文庫)

羆嵐 (新潮文庫)

 

 

パールハーバーとハワイイの歴史 

2016年も政界では「失言・珍言」が繰り広げられたが、政治家に混じって見逃せないほどの冴えを見せたのはファーストレディ、安倍首相夫人のアッキーこと昭恵氏ではないか。

「『日本を取り戻す』ことは『大麻を取り戻す』ことだと思っています」

 医療用や祈祷用の大麻解禁運動に熱心なアッキーは、小池百合子都知事との対談でそんなぶっ飛び発言をしたかと思うと、12月26日から慰霊のために真珠湾を訪問する夫・安倍晋三首相より一足早くこの夏にアリゾナ記念館を訪ね(8月22日)、なんともスピリチュアルなハワイ解放論を語っている。

「あそこは聖地なんですよ。ハワイのあそこを攻撃した日本は悪いかもしれないけど。本土からやってきて、あそこを乗っ取っちゃった人達もいるわけで。そもそものハワイに戻してあげましょうよって感覚になりました。自然の神様がそっちを望んでいるんじゃないかなって」

 ちなみに、アッキーはトランプ次期大統領に面会に行った安倍首相が、「トランプは選挙の時とは人が違うように普通だった」と印象を語ったという“国家秘密”まで暴露してくれた(12月6日の京都での公演)。政治評論家の有馬晴海氏が語る。

自民党議員の暴言や失言が目立つのは、野党がどんどん弱体化しているから。軽率な発言で批判を浴びても当選できるとタカをくくっているのです。ファーストレディも発言には慎重になるべきです。米国の大統領夫人には専門のスタッフがついて発言が管理される。しかし、昭恵夫人にはそうしたスタッフも縛りもなく、自分が考えるままに反原発など安倍政権と反対の主張をしてきた。その結果、時に無防備な発言が飛び出してしまう」

 米国のトランプ次期大統領も暴言・失言で話題だが、あちらには「パフォーマンス」という側面が見え隠れする。対して日本の政治家は“ただ脇が甘く、軽率なだけ”に見える。きっとこの分では、2017年も恥ずかし~い珍言がニュースとして駆け巡ることになりそうだ。ヨソの国の心配をしている場合ではない。

週刊ポスト2017年1月1・6日号

 安倍総理のハワイ訪問に関して調べていたら興味深い記事がありました。と言っても安倍総理の奥さんの話ですが。夫人の大麻に関する話はよく分かりませんし、この発言がスピリチュアルなハワイ開放論かどうかはかどうかは知りませんが、アメリカの本質について語っている言葉だと思います。日本の首相夫人としてこの発言をするのはかなり勇気が必要なことですが…何か考えて発言しているのか、それとも何も考えずに発言しているのか…

 アメリカの歴史は建国以来、経済的にも地理的にも帝国主義の拡張の連続として見ることができます。その象徴がハワイだと私は考えています。どこかの誰かに「世界が平和になるときはどんな時だと思う?」と聞かれたら「アメリカがハワイを手放した時」と答えるでしょう。名もない整備士に誰もそんなことは聞いてきませんが、私は個人的に世界の片隅でそんなことを考えています。

 総理がパールハーバーへ行ったからではなく、各地の植民地について調べるためにKindleでハワイに関する本を探していましたが思ったより扱っている数が少なかったです。書店に行ってもガイドブックばっかりです。それでも、ハワイの歴史に関する本を読んでハワイに関するおさらいをしていました。金と暇とパスポートがあれば誰でもハワイに行けますが、広島空港はとてつもなく不便なところにあり金も時間もかかるので私はハワイに行くことはないでしょう。(オバマ大統領も広島の平和公園訪問時には山口県岩国市の米軍基地から観音の広島西飛行場へ移動しています。広島空港は使われていません)いや、そもそも広島空港からハワイまでの便がない?

 

 と話がずれましたが、パールハーバーとハワイの歴史です。 

パール・ハーバーの軍事化は既に十九世紀末にはじまっていた。一八九三年、ハワイ王朝がクーデターによって倒され、翌年ハワイ在住の白人を中心にハワイ共和国が樹立された。四年後の九八年、共和国はアメリカに併合された。併合の直接の契機となったのは、アメリカとスペインのあいだに起こった米西戦争である。一八九八年に勃発したこの戦争はスペインやアメリカ国内で戦われたわけではなかった。戦闘はもっぱらキューバなどのスペインの植民地で起こり、軍事力に勝るアメリカが圧勝した。その結果、スペイン植民地だったプエルトリコ、フィリピン、グアムなどがアメリカ領となった。ハワイは、アジア諸国へ向かう格好の「中継地点」として併合されることになった。

 日本が真珠湾を攻撃したときはまだアメリカ合衆国の州ではありませんでした。戦後に50番目の州になりました。

 日本から移住した人びとの大半は、主に経済的な理由で故郷を離れる決意をした。広島や山口などの中国地方と、熊本などの九州出身者が多かった。一八八〇年代、これらの地域は景気がよくなかった。こうした時期に、「天竺の国」ハワイでは、三年間で四〇〇円もの金を貯めることができるという噂がとびかった。農家の次男や三男はこの話に飛びついた。

また、ひとつの村や地域の出身者がまとまって移住することもあった。これは、村の誰それの「成功物語」を耳にして(もっとも、それが正しい情報ではないことの方が多かったが)、他の者も心を動かされたからだ。山口県の大島郡からは住民の約三割がハワイへ移住した。

 本を読めばわかりますが、女性の中にはハワイで売春をさせられたことも多かったようです。もちろん外国人に対する生活保護なんてありません。

 日本からも移住がはじまった。明治元年の一八六八年に、一四九名がハワイへ渡った。ハワイの農場経営者たちは、「元年者」と呼ばれたこの日本人移民に大いに期待したが、かれらの定着率は悪かった。移住者の多くは農作業に不慣れだったし、経営者と賃金や労働条件をめぐって対立した結果、ほとんどが農場を去ってしまった。

 

結局、十九世紀末から二十世紀前半にかけて、約二二万もの人びとが日本からハワイへ渡った。

 

戦争が開始された当時、ハワイ人口の約四割「日本人」だった。もちろん、ハワイで生まれた二世や三世はアメリカ国籍を持っていたが、社会的には「ジャパニーズ」と呼ばれていた。

 

「非国民」「スパイ」などという疑いの眼差しを向けられた日系人社会は、必死になってアメリカへの忠誠心を示そうとした。十二月七日の攻撃直後、日系人の多くは家庭内にある「日本」を連想させるものを処分した。神棚を取り外し、家宝の日本刀を土に埋め、日本語の本や雑誌、日本の親族の写真を焼き捨てた。ひな祭りや盆踊りや灯ろう流しなどの年中行事も取り止めになった。正月の餅つきも行われなかった。和服は洋服にとってかわられた。

 日本語の姓を変えた人が二〇〇人以上いた。キムラはケアロハになり、ナカムラはマクファーレンになった。名を変えた人は二〇〇〇人を超えた。タケシやヨウコという名前が、ダニエルやエレンになった(23)。日本に忠誠を感じているとしても、それは決して見せてはならない感情だった。

 

 日系人の苦難は挙げていけばきりがないです。その人たちの歴史があって今があります。だからこそ、パールハーバーがいかにしてアメリカの基地になったのか。ハワイの歴史を抜きにしてパールハーバーという歴史を考えることは今のところ私にはできません。ハワイは最も多文化な州と言われていますが、最もアメリカという国の性質を表している州だと個人的には思います。

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 アメリカの歴史は東海岸での独立から始まり、西海岸には19世紀半ばに到達。それ以降は太平洋へ向かい日本や大洋州にも進出しています。東海岸の独立時の13州から西へ向かうほど領土が大きくなっているような気がしますが、これはおそらく気のせいでしょう。ハワイを併合に追い込んで、フィリピン、そして日本との戦争…日本人の大多数はこの戦争でアメリカに対する認識が止まっているかも知れませんが、負けを知らなかったアメリカ政府はその後アメリカから遠く離れた、ベトナム、アフリカ、中東で『正義』のために戦争を行っています。

 私だって、アメリカのすべてを否定したいわけではありません。産業や科学に対するアメリカの功績は計り知れないものがあります。そしてこれは、家族の話ですが、私の親戚(祖父の妹)は戦後、カリフォルニア州に渡りアメリカ人になりました。いや、国籍離脱がどうこう言っていたので二重国籍かもしれません。まぁでも国会議員ではないので大丈夫でしょう。そしてアメリカで日系人の加藤さんと結婚して、子供に恵まれその子も日系人の方と結婚して、日本人の顔をしているけれど日本語が話せないアメリカ人の孫に囲まれて今も煙草をぷかぷかしながら幸せに暮らしています。2年後に会いに行きたいと思っています。それまでお互い生きていればいいんですけれど。

 最後に、この本はあの「ハメハメハ大王」の歌を通して日本に対して鋭いことを書いています。年末が近づいてハワイに今年も多くの人が行きますが、南の島の楽園の暗い部分を見てくる人は少ないでしょう。

 

 

 

地図を見ればわかりますが、アメリカがハワイを手放すことはありません。

 

 引用はこの本からです。

 

イザベラ・バードのハワイ紀行

イザベラ・バードのハワイ紀行

 

 近いうちに読みます。他にもマーク・トウェインジャック・ロンドンが19世紀のハワイを書いています。

ふしぎの国のバードと日本奥地紀行

今 この国でひとつの文明が滅びようとしている

あらゆる考え方

あらゆる生活

あらゆる文化が姿を消すだろ

‘’江戸’’という呼び名と共に

滅びは誰にも止められない

しかし

記録に残すことはできる

困難なことだが誰かがやらねばならない

  『ふしぎの国のバード』は1878年(明治11年)に英国の冒険家イザベラ・バードが日本を旅した記録『日本奥地紀行』(1880年)のマンガです。一巻の途中に上記の言葉が出てきますが、この困難なことをやってくれたのがイザベラ・バードです。西洋人が足を踏み入れたことのない街を踏破して蝦夷の道央まで行きアイヌとも会っています。いやアイヌの人々と会うことも大きな目的でした。(当時の欧米では日本のすぐ近くに未開の人たちが暮らしているということに興味がありました)これはまだ、鉄道が横浜―東京間、神戸―京都―大津間にしかなく、『車』が人力車を意味して、『日曜日』が休日ではなく、国中が脚気に悩まされていて、蚤が蔓延して、蚊によるマラリヤに悩まされ、陸上より船旅の方が早く快適に移動できた時代の日本の話です。

今のところ

一巻は横浜、江戸、粕壁(春日部)、日光

二巻は日光、二荒山温泉、会津

三巻は会津道、津川、阿賀野川、新潟です

 原作の『日本奥地紀行』は妹に宛てた手紙約60通を中心に成り立っていますが、漫画の三巻が終わった時点で約22通目の手紙のところくらいです。まだまだ楽しませてくれそうです。ネット上では原作を読まずに『朝鮮紀行』と『日本奥地紀行』の都合のいい箇所を抜粋して朝鮮だけを貶めて、日本だけを持ち上げる人も中にはいるみたいですが…この漫画は原作を忠実に描いています。良くも悪くも『正直』なバードは日本の悪い面もあぶりだしてくれています。原典に忠実なこの漫画では、日本における、蚤、蚊(マラリヤ)、皮膚病、宗教、自殺、都会と田舎の格差を容赦なく描いています。

 漫画との比較の参考までにですが『日本奥地紀行』から日本に対するバードの印象を引用します。

日本人は洋服を着るとえらく小柄に見えます。どの洋服も不似合いで、病弱な体型と国民全体の欠陥であるへこんだO脚が誇張されます。「顔の血色」と髭がないので、男の人の年齢を推し量るのはほとんど不可能です。わたしは鉄道員は全員が十七、八歳の若者だと思っていましたが、実は二十五歳から四十歳のおとななのでした。

 

五〇歳くらいに見える宿のあるじの妻においくつですかと(日本では礼儀にかなった質問)尋ねると、二二歳だという答えが返ってきました。このように驚かされたことは他にいくつもあります。この宿の息子は五歳ですが、いまだに乳離れしていません。

 

女性、特に娘たちはしとやかでやさしくて感じがいいのですが、美貌に関しては、これならまずまずという程度の顔にさえ出会いませんでした。鼻はぺったんこで唇は厚く、目は斜めに吊り上がったモンゴル人種のタイプです。それに眉を剃り落とし歯を黒く染める(ただし東京では以前ほど一般的ではありません)一般的な風習が一目でわかる生気のなさとあいまって、ほとんどどの顔もうつろでぼんやりして見えます。

 

男性も同じようなものです。ふつう身長は五フィートから五フィート五インチ(約一五三-一六五センチ)ありますが、体つきは貧弱で、筋肉がなくて痩せている点は大体殿どの男性にも共通しています。わたしの受けた印象はこれまで会ったなかで最も醜くて最も感じのいい人々だ、それにもっとも手際がよくて器用だというものです。

 

栃木は粕壁よりもさらにひどい街でした。私は日本国内の旅行をいっさいやめてしまおうかと思いました。昨夜事態が大きく好転していなければ、きっと不真面目にも東京に帰っていたでしょう。But from Kasukabe to Tochigi was from bad to worse. I nearly abandoned Japanese travelling altogether, and, if last night had not been a great improvement, I think I should have gone ignominiously back to Tokiyo.

 栃木に関してあまりにもひどい誤訳かと思いましたが英文を読むとそうではないようです。バードの街に関して抱く感想は、些細なことによって左右されているのでバードに悪く描かれている街でも気にしない方が良いです。旅の途中で『土地受けた印象はその時の気候に左右されている』と手紙に書いているくらいです。バイクか自転車か徒歩で日本一周したことがある人にはよくわかる気持ちだと思います(特に自転車と徒歩)。

  

わたしの不安は、ひとり旅の女性にとってはまったく当たり前のものではあっても、実際はなんら正当な理由のあるものではなかった。その後わたしは本州奥地と蝦夷の一二〇〇マイル[約一九二〇キロ]を危険な目に遭うこともなくまったく安全に旅した。日本ほど女性がひとりで旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はないと思う。

  これは日本を旅をした後の感想です。宮本常一が指摘していましたが、19世紀当時のイギリスでも女性の一人歩きは危険だと見なされていたようです。何度も何度も手紙の中で日本は安全だったと書いています。ただ、江戸を離れて北海道に行くまで、泊まるたびに地域の人に障子越しに寝室を見られてプライバシーが守られていないのは慣れるまで辛かったようです。

貧しく見えるのは、この人々がまだ身近もなものとはなってはいない快適な設備や環境に対して無関心であるからかもしれません。汚れは防げますし、子供たちに皮膚病が流行っている原因をつきとめるのはむずかしいことではありません。これまで旅したほぼ全域で清潔さが欠如していることは疑いなく、これに私は驚いています。

 

この逸材の卵は推薦状を焼いてしまったからだと弁解しました。マリーズ氏に今すぐ問い合わせられるわけでもなく、それ以上に、私はこの男が信用できず気に入りませんでした。とはいえ、彼にはわたしの英語がわかり、わたしには彼の英語がわかります。それに早く旅に出たくてたまらなかったわたしは、月十二ドルで彼を雇うことにしました。その後すぐに彼は契約書をもってもう一度やってきました。契約書には合意した賃金で忠実に使えることを神明にかけて誓うと明記してあり、彼は捺印を、私は署名をしました。翌日彼から一か月分の賃金を前払いしてほしいと頼まれて支払いましたが、ヘプバーン博士が私を慰めるようにおっしゃるには、あの男はもう来ないだろうね!

 契約書を交わした厳粛な夜以来わたしは気をもんでいましたが、昨日彼が約束の時刻にちゃんと現れたので、まるで本物の「海の老人」[『千夜一夜物語』「船乗りシンドバードの物語」に出てくる妖怪]が自分の方にしがみついたような気がしました。

 ここは漫画と原作では違います。どっちがいいかはわかりません。伊藤が甘いもの好きなのはその通りです。ただ一巻の山場である、バードが人力車を引く人に対して感動したのは事実です。原作の中で繰り返し繰り返し、車夫への感謝を述べています。他に原作の中で繰り返し述べていることは、蚤やダニや蚊に悩まされていること、馬のサイズや気性に関する不満、西洋人の女性が一人旅をしても全く心配がないという治安の良さ、そしてキリスト教の布教状況です。

 現代の日本人が考える以上に、明治時代でも欧米のキリスト教の影響は強いです。キリスト教を信仰していない地域があれば『まだ本当の神様を知らない哀れな人たちなのでキリスト教を教えてあげよう』という考えで世界中に布教していました。もちろん当初日本に来た宣教師たちもそうです。そしてキリスト教徒のバードも『日本人はキリスト教を知らなくてかわいそう。それなのに日本はキリスト教徒が発明した科学技術や知識だけ使って帝国主義になろうとしていないかしら?でもキリスト教が日本で広まったら日本の文化はなくなってしまうかもしれないわ。それでも日本がキリスト教を信仰したら東アジアで最も立派な国になるでしょうね』という考え方の人です。行く先々での布教の状況を逐一手紙に記しています。マンガに描かれているだけのかわいい淑女ではない訳です。植物学、地質学の知識や旅の経験も豊富で、旅に出れば誰でも、外国に行くだけでは誰でもバードのようになれる訳ではないことを痛感します。明治の初めにバードのような人物が日本に来てくれていたことを本当にありがたく思います。

 余談ですが新潟にて『ヌーハラ』についての文章もあります。ちなみに私は音は必要最小限で、出されたものは残さずにすべて食べます。

It is proper to show appreciation of a repast by noisy gulpings, and much gurgling and drawing in of the breath.Etiquette rigidly prescribes these performances, which are most distressing to a European, and my guest nearly upset my gravity by them

ごちそうだということを示すために、ぺちゃぺちゃ、ごくごくと音をたてて食べたり飲んだり派手に息を吸ったりするのは正しいことです。作法では厳然とそう定められており、これは西洋人にとってはとても困ったことで、わたしはこのお客さまの食べ方にもう少しで笑い出してしまうところでした。

  

 完訳の原作とともに、一冊丸ごと民族学者の宮本常一による解説の本も出ています。 

 一般人が気づきもしないようなことを常一は逐一拾って解説してくれています。

品川に着くまで江戸はほとんど見えません。というのもあがっている煙もなければ高い煙突もまったくなく、寺院や役所も高くそびえてはいないのです。寺院はたいがい森に隠れているし、ふつう家屋の高さは二〇フィート[約六・一メートル]を超えることがめったにありません。

という文章から。

東京へ近づいて行っても、全然東京が見えなかった。しかしそこに世界で一番大きな都市があったのです。明治のはじめにはすでに東京の人口は一〇〇万人いたわけでロンドンの三倍以上の大きな町があったのに着くまではわからなかった。つまり工業がなかったということです。

 このように一冊丸ごと解説してくれているなんてありがたい話です。原作を読むなら間違いなく読んだ方が良いです。

 

 何事も原作に忠実ですが、バードの若い容姿だけはマンガ向けのものです…イザベラバードは1831年生まれ。日本に来ているのは1878年です。漫画では色んなものに恥じらうお茶目な英国淑女ですが実際はパワフルで冷静な帝国主義者の目を持った何事も言いたい放題のキリスト教のおばちゃんです。Amazonでは漫画も大絶賛の様ですがそれも分かります。元々の原作が抜群に面白いですから。

 

ふしぎの国のバード 1巻 (ビームコミックス)

ふしぎの国のバード 1巻 (ビームコミックス)

 

 かわいらしいバードさんです。 

イザベラ・バードの日本紀行 (上) (講談社学術文庫 1871)

イザベラ・バードの日本紀行 (上) (講談社学術文庫 1871)

 

 これは『日本奥地紀行』の完訳版です。江戸から蝦夷へ行き、その後、京都で新島夫妻と会ったり伊勢神宮まで行った記載もあります。マンガがどこまで描かれるかはわかりませんが…全部面白いです。

 江戸から蝦夷までの解説です。

国立西洋美術館は写真撮影が可能

 

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 館内の絵画を撮ることができる美術館が日本にあるとは知りませんでした。東京・上野の国立西洋美術館の話です。また『国立』美術館を名乗っているのに大半が一人の資産家(川崎造船)の寄贈ということも知りませんでした…Kawasaki好きだったのに…

 中国からお越しの若いお兄さんに頼まれたのでモネの絵と一緒にぱちりと撮ってあげました。誤って?フラッシュをたいていた日本人の女性は館内の係りの人に怒られていましたが…もちろんフラッシュのライトなどは絵画を痛める『可能性がある』ので厳禁です。

 館内には写真に撮れるもの、撮れないものがあるので注意が必要です。基本的には国立西洋美術館所蔵のものなら撮影できる様な感じです。

 

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 アルプスの画家、セガンティーニの作品です。はるか昔に滋賀の佐川急便の美術館で見たことがあるような気がします。

 

 

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モネのセーヌ河です。ひろしま美術館にも同じモチーフの絵があったような…

ラピュタと日本

 『ラピュタ』とはジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』に出てくる、空に浮く島にある王国の名前です。名前だけはジブリ映画でおなじみかもしれません。ジョナサン・スウィフトが書いた原作の方では、天空に浮かぶラピュタに行くきっかけとなったのも、帰ることができたのも『日本』という国のおかげです。日本が鎖国中に書かれた欧米の冒険小説には『日本』という国がよく出てきます。当時のヨーロッパの人たちには、ちょんまげ姿で異教を信仰して鎖国していた日本も、空に浮かぶような空想の国と同様に『不思議の国』と感じられたのかもしれません。

 『ガリバー旅行記』には4か国登場しますが、残念ながら日本では有名なのは小人の国と巨人の国の二か国でだけです。『ガリバー旅行記』は元々は風刺文学であり、後半の2か国にこそ、より作者の風刺が効いています。風刺をしすぎたのかどうかが原因かはわかりませんが、作者は精神がおかしくなって死んでしまいましたが…

 ストーリー自体はあってないようなものです。船で海に出たガリバーが島に流されたり、海賊に置き去りにされたりして不思議な国に行くという設定です。ラピュタの国である3か国目は章が始まって4ページ目ぐらいですでに海賊に捕まっています。フウイヌム国という馬が出てくる4か国目では章が始まってだいたい2ページくらいで船員が海賊だったことが判明し監禁されています。そんなおっちょこちょいのガリバーの物語です。

 そんなお茶目なガリバーは、ラピュタの国に行く前に、小人の国と巨人の国でそれぞれ大変な目にあっているというのに『世界をこの目で見たい』という衝動によって妻子を残して船に乗ります。冒険物というのはこういった単純な動機以上に高尚な動機はないのかもしれません。他に冒険小説として有名な『ロビンソン・クルーソー』も大体そんな理由でした。親に引き留められているのに何度も海に出て終いには無人島?で何十年か過ごすことになりました。

 そのラピュタの国に行く前に海賊に捕まったガリバーですが、その海賊の首領が日本人でした。その日本人はオランダ語は下手糞だが、寛容な心を持つ人として描かれています。日本人の外国語下手なのは今に始まったことではないのかもしれません。殺されかけたガリバーでしたが『寛容な』日本人のおかげで殺されることなく島に置き去りにされました。そこで脱出の手段を考えているところに、空に巨大な島が存在していることに気づきます。それがラピュタです。

 そのラピュタの住人(身分の高い人)は頭を左右どちらかに傾けていて常に物思いにふけっています。会話の最中でも物思いにふけってそれを忘れてしまうので、会話をしていることや、話を聞いていることを思い出させるために、召使に『短い棒に膀胱を括り付けた道具』で口や耳を叩いてもらっています。ガリバーも国に行ったばかりのころは会話の最中にラピュタの住人同様に召使に口や耳をぽこぽこ道具で叩かれています。しばらくするとガリバーはラピュタの国の言葉を理解し会話もできるようになります。そしてラピュタは数学と音楽以外は発達しておらず、常に取るに足りない何かを心配している国であることに徐々に気づいていきます。

 私が『飛行島』あるいは『浮遊島』と訳した言葉は、この国ではラピュタと発音するが、語源はわからずじまいだった。いまは使われていない古代の言語によると、ラップは『高い』、ウンターは『統治者』を意味するのだという。そこから、ラプンターが転じてラピュタになったのではないかという説もある。だが、わたしには、その説はいささかこじつけに思えた。

 ラピュタという飛行する島は直径7キロ、厚さ270メートルほどで磁力により空中に浮いています(ラピュタの国が支配する大陸が磁石になっている)。最大6400メートルまで浮上可能です。地上で反抗する街があると、街の頭上に居座り太陽を遮ったり、ひどい場合には上から街を押しつぶします。

 ラピュタの国の技術研究所で未来を予知しているのではないかという記述もあります。18世紀に書かれているとはいえ『遺伝子操作技術』『Wikipedia』『エアコン』などの概念を提示しています。日本へ行く途中に寄り道した国では『不死の人間』『死者の蘇生』についても扱っています。作者は皮肉を込めて実現不可能なものとしてこれらを書いていますが、現代は18世紀の創造よりはるか先に進歩した未来になっています。現代の技術と比べてみるのも面白いです。『不死の人間』がいると聞いて喜ぶガリバーに、現地の人が諫めている言葉を紹介します。どう生きるかについて普遍性がある言葉です。

きみの創造するストラルドブルグ(老い続けるが不死の人)の生活は、若さや健康、活力が永遠に続くことを前提としている、だからこそ理屈に合わず実際とはかけ離れてしまっているのだ、とその貴族は続けた。いくら希望をふくらませるのは自由だといっても、人間の身でそんなものを願うのはあまりに馬鹿げているのではないか。つまり、ここで考えるべきことは富と健康に恵まれて、若さの特権を満喫しながら永遠に生きることを望むかどうかではない。老化にともなう重荷をすべて背負いこみながら、けっして終わらない一生をどう送りつづけるか、という問題なのだ。こんな苦しい境遇で永遠に生きたいと思う人間など、本来ならほとんどいないはずだ。だがさっきも話に出たバルニバービ(架空の国)や日本では、誰もが死を少しでも先延ばししたい、遅ければ遅いほどありがたいと思っているし、悲痛や苦痛のまっただなかにいる人間をのぞいて、喜んで死にたいと願うものはいない。きみがこれまで旅をしてきた国、そしてきみの故国でも、やはりこう考える人間が多かったのではないだろうか

 その後、ラピュタの国を出て、日本へ渡ったガリバーは江戸で皇帝(将軍)と会い、ナンガサク(長崎)へ送ってもらい、踏み絵を踏まされそうになりながらも(ガリバーはもちろんキリスト教徒)、最終的にはイギリスへ帰ることができました。とは言ってもまたすぐ海に出ますが。

 『踏み絵』というものが当時の欧米でも知られていたのがここの記述からわかります。『長崎』という地名も出てきます。日本へ行く際にはわざわざ国籍を『オランダ人』と偽って入国しています。もちろん作者は日本に来たことはありませんが、荒唐無稽なものを書きながら、事実を混ぜることも忘れてはいませんでした。

 最後の4か国目、『ヤフー』と呼ばれる人間が『馬』に支配されているフウイヌム国ではガリバーの風刺が一層激しくなります。馬の国で人間嫌いになっていたガリバーはイギリスへ帰った後で、妻子を遠ざけるようになり馬を飼い穏やかな日々を過ごすことに決めたのでした。作者が最も訴えたかったことは最後の国である『フウイヌム国』の文中に書いてあります。しかし『フウイヌム国』の内容の紹介はあまりにも過激なのでやめておきます。

 巨人になったガリバーが小便をかけて火事を消したり、小人になったガリバーが巨大な鳥にさらわれたりするのは読んでいて面白いですが、それでもガリバー旅行記は子供の読み物ではなく大人向けの読み物です。ジブリの映画は名前と設定を借りた全くの別物です。それでも、元々の『ラピュタ』もジブリの『ラピュタ』も日本と関わりがあるということは嬉しい話ですね。

 

ガリバー旅行記 (角川文庫)

ガリバー旅行記 (角川文庫)

 

 権利の関係かわかりませんが、kindleにはあとがきや解説がないものが多いです。この本のkindleにも残念ながら解説はありません。紙の方が良いかもしれません。『ガリバー旅行記』は各出版社からいくつか種類かありますが、翻訳が古いものは避けています。どこかの村上春樹が言っていたように原典には寿命がありませんが、一部を除き翻訳には寿命があると私も考えています。

『この世界の片隅に』なった呉の失敗 そごう跡地

この世界の片隅に』は漫画を忠実に再現したいい映画でした。戦争前のクリスマスの風景、戦時中の呉の遊郭、終戦直後の太極旗…細かいところまでその時代の雰囲気を見せてくれていました。能年玲奈広島弁はかわいらしくていいですね。

 

 その映画の舞台である呉市の失敗、そごうの跡地についてです。映画を見て広島に来る方には申し訳ないですが、今の呉には往時の影はありません。鉄のくじら館、大和ミュージアムなどの施設をはじめ『歴史の見える丘』など海軍時代の遺構が見られるところはありますが、その造船業も苦しい状況です。巨大なクレーンやドックが見られるのは面白いですが、本来は観光施設ではありません。

 今の呉市を象徴するものとして『呉そごう跡地』が挙げられます。跡地とはいってもそごうが撤退しただけでビルとしては残っています。呉駅の大和ミュージアムの反対側にある、呉そごうは2013年1月に閉店したまま、何も入らずそのままです。駅前の一等地が4年間も放置されている状態です。もう間もなく5年目になりそうです。

 そごうが呉から撤退するのとほぼ同じ時期に、呉市役所の庁舎建て替えの問題がありました。市民や市議の中には、この呉駅と直結した呉そごうの建物を改装、もしくは建て直して市役所にすればいいという声も出ていました。そごうはJR呉駅の目の前にあるので、呉の中心部以外から電車やバスで出てくる人にはとても利便性がいい場所にあります。広島市は川の街ですが、呉市は山の街です。広島市は川によって区が分けられています。それに比べて呉市は、トンネルを越えるごとに地区が変わります。これはJR呉線に乗ってみればわかります。大きな平野部がないので連続した市街地を持つことができずトンネルによって平野部にある各地区を繋いでいるという状況です。一例ですが呉地区と広地区の間には2㎞弱ある休山トンネルがあります。そういった地理的な状況で呉駅は呉市の中で最も利便性がいい場所です。車を運転できない各地区の交通弱者に配慮したり、公共交通機関を重視するならば市役所は呉駅直結の呉そごう跡地が最適な場所でした。

 しかし、結局は130億円ほどかけて元の場所(呉駅徒歩約15分)に建て替えています。特例の国債で、早く建設すれば呉市の負担が少ないと庁舎を建てましたが、国債も税金です。全国津々浦々の市役所の建設費用には詳しくありませんが、呉市の130億というのは単位面積当たりだと割と高額な料金らしいです。なお閉店前の呉そごうの売り上げは89億円です。

 呉の中心部以外の支所に関してですが、呉市の中で2番目に大きな地区である広地区では駅の目の前の利便性がいい場所に支所があります。広地区は2002年に病院と支所の目の前に新駅ができる形で利便性がよくなりました。呉と広に挟まれた阿賀地区も駅の目の前に支所があります。他にも調べたところJR呉線が走っている地区のほとんどは駅の近くに支所があります。電車が先か、役場が先かはわかりませんが各地区とも利便性に関しては文句ない立地に立っています。

 

 このまま順調になにもしなければ、『そごう跡地』は呉の衰退の象徴になりそうです。市役所の建て替えと呉のそごう跡地について、市議会議員が2012年に書いているメルマガですが、分かりやすくまとめてくれています。

 

呉市 市議会議員 谷本誠一氏の平成24年6月6日のメールマガジンより

 

谷本誠一メールマガジン

(1)新庁舎建設の方向性

市役所庁舎を何故建て替えるのか?-平成25年2月と5月に2度に亘る応札業者辞退による入札不調を受け、市民間で動揺が広がっています。確かに、当初有利な借金である合併特例債の活用期限が近隣市町との合併後10年を経た平成26年度末までだったこともあって、市民への説明不足は否めません。その後その期限が法改正によって5年間延長されたことで、益々その声が高まって来たのは事実でしょう。先ず、平成7年の阪神大震災を受けて、平成10年度末に市庁舎整備検討懇話会が「震度6程度の地震でせん断破壊の恐れがあるため、建て替えるべき」と提言しました。その後平成23年の東日本大震災を目の当たりにするにつけ、市民の生命と財産を守る司令塔としての防災拠点を確保する目的が根底にあることをご理解頂きたいと思います。尚、合併特例債は総事業費150億円の内、市民の血税投入は60億円で済み、残りは元利償還分を国が10年間の交付税で措置します。活用期限が5年間延長された訳ですが、請負契約を25年9月末までに行うことで、消費税率が8%に上がったとしても、支払いは5%で済ませることができることが早期建設着手の理由の一つになっています。これは、私が4月12日に招集された臨時会で、再入札に係る補正予算での賛成討論で指摘したところです。因みに、業者が資材購入等で8%の消費税を支払ったとしても、差額の3%分が還付される特例措置が採られます。 

 

新庁舎そごう活用の可否

 次に、そごう呉店だった建物を活用すれば経費を大幅に削減できるのではないか?-とのご指摘にお答え致します。 先ず、建物の地上権の内80%を㈱そごう・西武が所有、15%を呉市が所有、5%を民間が所有しています。それを仮に呉市が全て購入したとして、そごう撤退による地域経済のマイナスを取り戻すことはできません。雇用は確保できず、商取り引きも回復せず、固定資産税や法人市民税も入って来なくなります。呉市としては、駅前の一等地は、商業ゾーンとして捉えていまして、そこに役所を移転することは毛頭考えておりません。もし駅前に市庁舎を移転するとなると、中央地区商店街に役所職員が昼休みに飲食に来なくなり、大打撃を受けるでしょう。一方、震災に備えるべく、新庁舎には免震装置を埋め込みますが、既存建物にそれを設置することは現代の建築技術で可能ではあっても、多大なコストアップになります。更に建物内を大規模改修する必要があり、効率よく実態に即して仕切り直すことは、困難です。しかも建て替えの設計費として既に支出済みである2億3千万円が無駄金となります。更に自前の駐車場を新たに整備する必要があり、近隣地にまとまった土地がないことから、行政サービスの低下を招くのは必定です。もし適地があったとしても、その購入費や造成費を考えると、かなり効率が悪いと言わざるを得ません。尚、㈱そごう・西武には、大型店舗数社から既に引き合いが来ており、現在交渉中であると窺っています。呉市としては、民活での大規模商業施設誘致に期待をしているところです。以上、何卒ご理解を賜りますよう衷心よりお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

 『呉には若い人は海兵さんか看護婦さんしかいない』と呉の知り合いの看護婦さんが言っていました。おそらくそれは事実です。呉市島嶼部を合併した結果、高齢化率がものすごく高く全国でもトップクラスです、国立病院(すずの義理のお父さんが入院していました)や総合病院も多数あり看護師の需要がとても高いのでしょう。そして、近隣には自衛隊海上保安庁も海上保安大学、海上自衛隊第一術科学校もあります。呉の街に行けば制服姿の水兵さんがうろうろしているところを見ることができます。それでは他の若い人はどこに行っているのでしょうか?

 呉にはIHIや日新などの昔からの企業はありますが…多くの若い人は職を求めて広島かもしくは県外に出ます。買い物も広島に出ています。映画館もかろうじて1館が営業しているだけです。呉の商店街の中にある小さな映画館よりも、若者の多くは広島の映画館に行きます。『この世界の片隅に』も呉が舞台なのに呉で見られないという可能性すらありました。呉で唯一の映画館は一日のお客さんの数が一桁の日もあったそうです。これが今の呉市の現実です。一時的には注目されるかも知れませんが…

  色んな意見があって当然だと思いますが、個人的には呉市の失敗は市役所を移転した移転しなかったではなく、駅前の一等地を長年に渡り空き家にしてしまっていることだと考えます。例えば、広島駅の駅ビルが4年間も空き家だったら、広島市民から大バッシングを受けることは間違いないです。そもそも長期化するということが考えられません。呉市役所を建て替えたのであれば、賛否に関わらずそれは活用するしかないです。呉市の職員や議員の方にも、商店街に打撃を与えないように昼休みに出かけて昼食を取ってもらうしかありません。それでも、今の呉市のそごう跡地に入ってくれる商業施設があるのかどうかは未知数です。そごうですら撤退したのにリスクを冒して呉市に投資してくれる企業があるとは思えません。そして今は呉駅の反対側、大和ミュージアム側にゆめタウン呉があり繁盛しています。商店街は呉市職員が支えてくれるとして、今の呉市には駅の表と裏、両方の商業施設を誘致や維持できるだけの魅力や財力があるのか疑問です。繰り返して言いますが、呉市は全国でもトップクラスの人口の減少率と高齢化です。そして呉市から一時間ほどの距離に広島があるので、呉市民ですら買い物なら広島に行くかという意識になっているのではないでしょうか。一時はゆめタウンがそごう跡地を取得するのではないかという話がありましたが、いつの間にか流れてしまった様です。なお、ゆめタウンは2015年に廿日市には新店を開店させていて井口にあるアルパークから客を奪っている様です。

 

 

 呉市は平野部がなく人口の高齢化にも直面し、誰がなんと言おうと衰退中の都市です。

 広島は平野部はありませんが他の大都市から距離があるために人口や産業が流出しにくく他の地域から集まりやすくなっている呉市の隣の都市です。

 呉の北東にある『東広島』は平野部も多く、大学も若者も多く、山陽道も通り、近いうちに呉市の人口を抜かすことは間違いありません。

 呉市は様々な事情を考えて手を打たないと衰退が加速するだけです。これを時代の流れというのはあまりにも寂しいことです…

『まぁ近くに広島があるからいいか』職員や議員の方ももしかしたら薄々そう考えているのかもしれませんが。

 

 今日の中国新聞の片隅にそごう跡地について、民間の事業者がそごう跡地を建て替える際は行政が補助を出すという報道がありました。何を今さらとしか思えませんでした。

 私は映画を見て呉を観光する方にはぜひ『呉そごう跡地』や呉と広を結ぶ『呉越峠』『休山トンネル』『音戸の瀬戸』などにも行ってほしいです。もしくは地図を眺めて考えてほしいです。なぜ呉が軍港で栄えたか…呉ではなくなぜ広島に原爆が落とされたか…軍港で栄えた呉がなぜ衰退中なのか…映画では描かれていないことや、呉のその後がわかると思います。

 

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これは江田島海軍兵学校ですが広島と呉と切り離して考えることはできません。

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呉の先っちょの音戸です。ここが陸続きだったら歴史が変わっていたと思います。

 

nejimaki96296.hatenablog.com

 

 

 

『老いる家 崩れる街』

 本には読まれるべき時期というものがあると個人的には思います。

 小学生の時に読んで一生の記憶に残る本。中学生の時に読んで読書感想文に困る本。高校生で読む少し背伸びした本。社会人になって読む仕事のための本…私は読書家ではないので本はあんまり読んできませんでした。

 それでも以前、私も一念発起して読書家になりたいと思ったこともありましたがやっぱり駄目でした。何年か前に買った『竜馬がゆく』の坂本龍馬はまだ土佐から出られずに、千葉さな子と会ってすらいません。竜馬はまだどこにも行けていません。東大阪にある司馬遼太郎の記念館にすら行ったのに。近いうちに読むので許してください。

 

  前置きが長くなりましたが、そういった意味で『老いる家 崩れる街 住宅過剰社会の末路』というのは2016年の今、日本人みんなが読むべき本だと思います。あまり『読むべき』とかいう言葉は使いたくありませんが、2016年の今、読むべきです。5年後でも10年後でも手遅れです。もっとも、もしかしたら今でも手遅れかもしれません。冒頭から日本の不思議な住宅環境について簡潔に述べてくれています。

  私たちは、「人口減少社会」なのに「住宅過剰社会」という不思議な国に住んでいます。住宅過剰社会とは、世帯数を大幅に超えた住宅が既にあり、空き家が右肩上がりに増えているにもかかわらず、将来世代への深刻な影響を見過ごし、居住地を焼き畑的に広げながら、住宅を大量につくり続ける社会のことです。

 新規で新しい場所に住宅を作ると将来にわたってインフラを維持することや公共サービスに多額の費用が掛かります。それを考えずに新築物件を次々につくっていくことに著者は警鐘を鳴らしています。

 この本の帯で住宅過剰社会の失敗都市の例として東京都中央区・港区・江東区・町田市、群馬県前橋市、埼玉県川越市羽生市秩父市、千葉県習志野市、静岡県浜松市和歌山県和歌山市兵庫県神戸市、香川県高松市、福岡県福岡市…などを挙げています。どこか知らない架空の街ではなく問題が起きているのは実際の都市です。本書に記載がなくてももしかしたら読み進めていくうちに自分の街のことの様に感じるかもしれません。実際、わが家の畑をマンションに変えて金儲けしようとするいくつかの業者が日中よく訪問してきます。(現在私は自宅警備員をしています)畑よりマンションにするのは儲かるのはわかっています。だが断っています。

 現在でも、日本の総世帯数である5245万世帯より16%も多い6063万戸もの住宅があります。わかりきっていることですが日本の人口が将来減るのは確実です。2060年には2010年の人口の約7割まで減少されていることが予測されています。さらに今現在でも毎年100万戸ほどの新築物件が供給されています。ちなみに2015年の赤ちゃんの数が100万8000人です。そしてあと何十年かすると団塊の世代の方の家も空く可能性が高いです。この数字をどう考えますか?それとも移民を受け入れて簡単に解決してしまいますか?

 本を読んだらわかりますが、著者は非常に誠実にデータと事実を提示してくれています。

 不動産会社や行政にも、「新築の物件を規制しろ」などとは書いていません。住宅・建設業界に対して(私はどこの業界も同じだと思いますが)、常に建物を作り続けないと収益が確保しにくいビジネススタイルであることに対して理解も持っています。著者の立場としては『住宅というのは建てた後のことも大事だから将来や周囲のことも考えて建ててください』というようなお願いです。でもそのお願いが叶わなくて世間に問題を知ってもらうために新書を書いています。タワーマンションに住んでいる人には少し怖い内容が含まれています。

 ここからは私の感想ですが、住宅も法律もインフラも人口や経済が右肩上がりの時代だったら許されていたことに限界が来ているのだと思います。各市町村の人口維持政策もほとんどが自分のところより少し不便な地域から人口を横取りしているだけです…出生率改善よりか移住促進の方が手っ取り早いですからね。

 

 最後に著者の住宅過剰社会への対策を記しておきます。

  • 自分たちのまちへの無関心・無意識をやめる
  • 住宅総量と居住地面積をこれ以上増やさない
  • 「それなり」の暮らしが成り立つ「まちのまとまりをつくる」
  • 住宅の立地誘導のための実効性のある仕組みをつくる
  • 今ある住宅・居住地の再生や更新を重視する
  • 住宅の終末期への対応策を早急に構築する
  • もう一歩先の将来リスクを見極める

 

 どうか日本が手遅れになりませんように。答え合わせはオリンピックの後で?

 

老いる家 崩れる街 住宅過剰社会の末路 (講談社現代新書)

老いる家 崩れる街 住宅過剰社会の末路 (講談社現代新書)