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神学・政治論 スピノザ 聖書批判

わたしには不思議で仕方ないのだが、ひとびとは神からの最大の贈り物であり神の光である理性を、人間の悪意によって歪曲できたはずの物言わぬ文字に従わせたがっている。神の言葉の本当の契約書である精神を不適切に語ったり、歪めたり、盲目にしたり、使い物にならなくしたりすることは何の罪とも思われていないのに、神の言葉の影に過ぎない文字についてそうしたことを考えるのは最大の罪とされているのだ。彼らは理性や自分自身の判断力を全く信頼しないことこそ道徳的で、わたしたちに聖書各巻を伝えてくれた人たちの信仰内容に疑いを挟むことこそ不道徳だと思っている。しかしこれはむしろ愚かしさの極みというものであり、道徳心でもなんでもないのである。

 聖書とは一体何なのか?奇跡はあったのか?復活はあったのか?旧約とは?新約とは?中東の一地域の宗教であったキリスト教を全世界に適応可能なのか?そして今から遥か昔に書かれた聖書を無条件に受け入れてもいいのか?

 今から350年前のオランダで、聖書に対して上記のような疑問を解き明かそうとした哲学者がいました。それがスピノザです。そして当時、匿名で、そして出版元を偽ってまで出版されたのが『神学・政治論』です。オランダのアムステルダムで出版されながら、「ハンブルク、ヘンリクス・キュンラート出版」と書かれていたそうです。

 スピノザは若いころに、生まれ育ったアムステルダムユダヤ人コミュニティを破門されていました。そして、後にこの『神学・政治論』という聖書研究・聖書批判の本を書いています。キリスト教からはユダヤ人として差別され、ユダヤ人からは破門されて、当時としては究極の独りぼっちだったということです。匿名でありながらも、こんな本を書くのはあいつしかいないとすぐにばれていたそうです。

 私も高校の世界史で『スピノザ』という名前だけは覚えたような気がします。もちろんその時は『神学・政治論』を手に取ることはありませんでした。その時にこの本を読んでも理解できなかったと思います。ただ、今読んでも理解が怪しいです。

 当時の人々には誤解されてしまいましたが、スピノザは聖書そのものを批判したわけではありませんでした。聖書を利用し、都合の良い解釈を行い、自己の権力を保持しようとする権力者や聖職者に対して批判を行っています。その状況を改めて、聖書をきっちりとした事実と伝説に分けたい。誰が書いたのかを追求したい。聖書のことをもっと知りたい。その思いで研究に励んでいました。スピノザがもしも、紀元前かイエスと同じ時代に生まれていたとしたら、きっちりとした記録を残してくれたはずです。もっともそれが、宗教と歴史の洗礼を経て現代までそのままの状態で伝わってくれたかどうかは別ですが。

 今から350年も前に書かれた本なので最新の知識は含まれていないかもしれません。訳者が指摘しているように、現代の認識から言えば間違っている個所もあります(辮髪は漢民族の一体感を高めるという箇所など)。それでも、ダーウィンの『種の起源』やカーソンの『沈黙の春』のように、当時の常識とは違うことを主張したということに意味があります。当時の世界では常識破りな主張をしたからこそ、出版してから4年後に禁書扱いをされています。中世のヨーロッパで、聖書に関して疑問を抱くということがどれだけ危険な思想だったかということは日本人でも簡単に想像できると思います。

 『神学政治論』で一貫して、聖書の真偽を誠実に確かめようとするのですが、聖書をよく知らない私にとっては、読み進めるのはなかなかつらい作業でした。いや、もしかしたら、聖書をよく知っているクリスチャンの方が読み進めるのがつらいかもしれません。それでも、歴史を学ぶということは知りたくもないことを知ることだと私は考えています…

 引用多めでスピノザの意見を見てみます。20ある章の中の序章でこの『神学・政治論』を書いた動機を述べています。

 

本書は、哲学する自由を認めても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう、ということを示したさまざまな論考からできている。

 

実はこの自由というものは、それを認めても道徳心や国の平和は損なわれない、というだけではない。むしろそれどころか、もしも自由が踏みにじられたら、国の平和も道徳心も必ず損なわれてしまうのである。

 

わたしにはしばしば不思議でならなかったのだが、キリスト教を信じていると公言してはばからない人たちが、つまり愛、喜び、平和、自制心、分け隔てのない誠意などを重んじているはずの人たちが、意外にも反目して争い合い、この上なく激しい憎しみを毎日のように互いにぶつけ合っている。上に挙げた徳目よりも、こういう争いを目にすることで彼らが何教の信者なのか分かってしまうほどである。

 

なぜこういうややこしいことになったのだろうか。原因を探ってみると、はっきり分かった。教会を取り仕切る仕事を特別立派なことと見なして、そういう仕事に報酬[=聖職禄]を付けてやり、聖職者たちには最上級の敬意を払う。宗教の内実が、一般にそんなものだと見られるようになったのがそもそもの始まりだったのだ。

 

本当に神の光の一かけらでも彼らに与えられていたら、これほどまでに正気を失って増長することはなかったろう。

 

さらに言ってしまうが、多少なりとも神の光を与えられていたら、少なくとも彼らの教えにそれが現れてきたはずだ。なるほど、彼らが聖書の深遠この上ない神秘とやらを、飽きることなくほめたたえてきたのは認めよう。

 

また、この神秘とやらの讃嘆があまりにしつこいから露骨に分かるのだが、彼らは聖書を信じているというよりもむしろ聖書に追従しているに過ぎない。これは以下のことからも明らかだ。彼らの多くは、まるで(聖書を理解しその本当の意味を探り出すための)大原則のように、聖書の記述はどこを取っても真実で神聖だと決めてかかっている。そんなことはそもそも聖書を知的に読み解き、厳しく吟味してからでないと確定できないはずだ。また人間の想像などほとんど加えなくても、聖書それ自体がはるかによく教えてくれるはずだ。

 

その結果、わたしはこう決心するに至ったのである。まずは改めて聖書を、偏見に侵されない自由な気持ちで味わってみようと。そして聖書自体が明白きわまりない形で教えていないようなことは、何一つ聖書について主張しないし、聖書の教えと認めないようにしようと。

 

だからわたしは、いよいよ確信したのである。聖書は理性を全面的に放任している。聖書は[理性の営みとしての]哲学と共通するものを何ももたず、両者はそれぞれ固有の足がかりに基づいているのである。

 

それ以外の人たちにこの論考を勧めるのは、わたしとしては気が進まない。何かの理由でこの本を気に入ってもらえるとは、どう見ても期待できないからだ。

 

だから民衆にも、また民衆と同じ感情にとらわれているあらゆる人たちにも、わたしはこの本を読むよう勧めない。この本を読むくらいならいっそ完全に無視してほしい。彼らが何につけてもよくやるように、この本にも倒錯した解釈をつけて勝手に不愉快がるよりは、無視してくれた方がよほどありがたい。

 これらのことは、キリスト教の盛んな地域では、現代でさえスピノザの名前を借りなければ、はっきりとは言えないことかもしれません。1670年にこれだけのことを書物にして発行したことにとても意味があったと思います。聖書の書かれた時代背景を確かめたい。聖書の作者を知りたい。聖書を自分なりに解釈したい。聖書について歴史的な事実を知りたいと願っていたスピノザでしたが、当時としては異端で無神論者の扱いもされた様です。

 批判を避けるための予防線を張っていることも明らかです。『神学・政治論』を読んで気に入ってもらえそうにない人には無視してほしいと述べています。残念ながらそれでも結局は、無視してほしかった人には、気に入ってもらえなかったようで、出版から4年後の1674年には発禁処分になっています。ただ、心ある人たち?のおかげで出版年月日を『1670年』にして地下出版されていたようです。

 

 内容に関しても少しだけ触れておきます。日本人にはとてつもなくわかりにくい預言についてです。はっきり言って預言とは預言者個人の想像力の産物じゃないかとスピノザは疑っています。もちろん疑うだけではなく、聖書から引用して自論を展開しています。神から言葉を預かった預言者の言動と言えども、スピノザにとっては白黒はっきりさせたいという対象でした。

預言とは、啓示ともいうが、ある事柄について神が人間に示した確かな知のことである。普通の人は、神から啓示された事柄を確実に知ることなどできないから、そういう啓示をただ信じることで受け入れるしかない。

 

だから想像力を用いずに、つまり言葉や映像に頼らずに神の啓示を受け取った人は、キリスト以外に誰もいなかったと断言したい。ということは、神の啓示を受けるために必要なのは、並外れて完全な精神ではなく、むしろ並外れて活発な想像力なのだ。

 

したがって、もう迷わずこう言ってしまっていいだろう。預言者たちは神からの啓示を、ただ想像力だけに導かれて、つまり言葉[=声]と映像だけを介して受け取っていたのだ。それは本物の声や映像だった場合もあれば、想像の産物に過ぎなかった場合もあった。ともかく、聖書にはこれ以外のどんな伝達手段も見つからないのだから、既に示したように、わたしたちの空想で別の手段があったことにしてしまってはいけないのである。

 

そもそも、イザヤは六枚羽のセラフィムを見たのに、エゼキエルは四枚羽の獣を見たのである。またイザヤの見た神は着飾って玉座に座っていたのに、エゼキエルの見た神は炎のような姿をしていたという。二人とも神を見たのは間違いないだろう。ただし、神は二人がそれぞれ普段想像していた通りの姿で見えたのである。

 

神が人類を根絶するという啓示がノアに与えられたのも、当人の理解力に応じてのことだった。ノアパレスチナの外の世界には誰も住んでいないと思っていたのである。

 

最後に、神が天に住んでいると信じていたモーセには、だからこそ神はまるで天から山の上に下りて来るように啓示された。そして彼自身も神に語りかけるために山に登った。もしモーセが、どこでも簡単に神のことを思い浮かべられる人であったら、山に登る必要は少しもなかったはずである。

 

預言者たちの言うことを信じなければならないのは、それが啓示の目的や核心に関わっている場合に限られる。

 

 この本の中で、スピノザは二回『日本』という国に言及しています。一人のオランダ人として、貿易はするけど布教には応じない日本という国が特異に映ったのかもしれません。日本が西洋の国から影響を受けたように、キリスト教ではない世界が確かに存在しているということは、キリスト教を信仰している世界の人に間違いなく相対的な視点を与えたはずです。 

  

これに対して、キリスト教徒の儀礼はどうだろうか。たとえば洗礼や聖餐や[教会関係の]祝日や集団祈禱や、これ以外にもキリスト教全体に共通して絶えず行われてきた儀礼は色々あるだろう。もしそうした儀礼をかつてキリストか使徒たちが定めたならば(本当にそうなのか、わたしはまだ十分に確信できないのだが)、それはただ教会一般の外的な目印として定められたのであり、[本当の]幸福に役立つものとしてでもなければ、神聖な何かを内に含んだものとしてでもない。したがってこうした儀礼は、もちろん[特定の]国を保つためではなかったけれども、しかしやはり社会の全体だけを念頭に置いて定められたのである。だからこそ、孤独な生活を送る人はこうした儀礼に少しも縛られない。それどころか、キリスト教が禁じられている国に暮らす人は、こうした儀礼を行わないよう義務付けられる。それでも彼らは幸福に生きられるのだ。この例は日本という王国に見出せる。この国ではキリスト教が禁じられているから、この地に暮らすオランダ人たちは東インド会社の命により、あらゆる外的な礼拝を行わないよう義務付けられているのである。

 スピノザが書いた『神学・政治論』がキリスト教の世界に、どれほど影響を与えたのか知りたい今日この頃です。最後に印象に残った言葉を紹介にして終わりにします。

わたしたちの時代も、もし一切の迷信から解き放たれたキリスト教が見られたなら、間違いなく幸福な時代と言えたのだが。

 

 

神学・政治論(上) (光文社古典新訳文庫)

神学・政治論(上) (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

私にとって神とは

 遠藤周作氏の本についてです。

 宗教の話をする前に立場をはっきりさせておきます。私はキリスト教徒が言う意味での宗教ならば無宗教です。キリスト教徒は火葬を恐れるかもしれませんが、私は死んだらこんがり焼かれるはずです。

 政治と宗教と野球の話は飲み屋でもするなと言われていますが、たちまちネット上では規制されていませんので書かせてもらいます。特に宗教に関して聖域を作ることを認めるべきではないと個人的には考えています。私にはよくわかりませんが、聖書や教えや神を疑うことは罪になりますか?

『私にとっての神とは』何なのかについて、クリスチャンである遠藤周作氏がキリスト教に対して正直に語っています。他の作品を読んでも分かるように、ガッチガチのクリスチャンというわけではありません、本人が言うように自分流に仕立て直した神を信仰しています。

 『あなたは、なぜキリスト教信者になったんですか。いまでも本気で信じているのですか。』

『あなたの書くイエスのイメージは特色がありますね。それを話してください』

『神の働きについて、もう少し話してください』

『あなたでも信仰を棄てようとしたことがあるのですね』

『じゃあ神を疑うことはあったんですね。そのことをもう少し詳しく話してくれませんか』

『あなたはさっきから意識では神を疑っても心の底では信じていると言いますが、その心の底って何ですか?』

『聖書を読もうと開いたんですが、どうもあれは面白くないんです。あなたはあのつまらない本をどういう風に読んでいるんですか。また聖書について話してください』

 

 といった、日本人ならキリスト教徒に対して思わず投げかけたくなるような、これら の質問に答えています。何か宗教を信仰していないとわかりにくい答えもありますが。

 多くの日本人が親から何となく受け継ぐ仏教のように、著者も母から与えてもらったものを棄てるのは親不孝になるという思いで、母親から何となく受け継いだカトリックを迷いながらも信仰していました。

 キリスト教徒は『敬虔』というイメージがあると思いますが、著者はそれを否定します。そして繰り返し、『信仰は90%の疑いと10%の希望』と言っています。疑いながらも捨てることができなかったということが遠藤周作にとってのキリストでした。この辺りの葛藤は『沈黙』に強く影響を与えています。

 聖書に対しても、正直に解説しています。著者の他の著作を当たってもわかることですが、聖書に書かれていることをすべて文字通りに受け取っているわけではありません。イエスの言動、クリスマスに生まれたということ、そして聖書の内容自体をもクリスチャンなのに100%は信じてはいません。もちろん、そこに至るまでには相当の葛藤があったようですが。ただ、90%の疑いより10%の信仰の方が強かったのでしょう。

 その後に近代聖書学の勉強をやりだして、聖書はそれぞれの福音書の作家が自分の属するグループの信仰を土台にして、旧約聖書の話や、イエスの死後の民間伝承を使って書いたものだと知り、今まで信じたことが崩れそうになったことがあります。その時もやはり、かなりのショックを受けました。聖書に書かれているイエスの行動のうち

 

 あなたは復活と蘇生と間違えているようですが、復活というのは蘇生とは違いますよ。復活には二つの意味があります。イエスの死後、使徒たちの心の中で、イエスはキリスト(救い主)という形で生き始めました。イエスの本質的なものがキリストで、その本質的なものが生き始めたということです。現実のイエスよりも真実のイエスとして生き始めたこと、これが復活の第一の意味です。  それから、イエスが復活したということは、彼が大いなる生命の中に戻っていったことの確認です。滅びたわけではなくて、神という大きな生命の中で生前よりも息づいて、後の世まで生きていく。これを復活と言ったのだと思います。

また、これは著者の解釈でありイエスが文字通り肉体とともに復活して、天に昇ったと信仰しているキリスト教徒もいます。そのあたりは居酒屋で話す際にも注意が必要です。

 『私にとって神とは』を通じて、神さまのことを対象ではなくその人の人生を通して働くもの、その人の背中を押してくれるもの『自分の中にある働き』と述べています。『タマネギという名前でもXという記号でもよかった。それが私の前にキリストという形をとって現れた』そう述べています。例え、一般的なキリスト教の信仰とは少し違っても、これが本心に近いのかなという感じがします。

 『イエスの生涯』『死海のほとり』『キリストの誕生』などの著作も併せて読むと、遠藤周作氏のキリスト教観がより深く理解できるのかなという気がします。あくまでも気がするだけです。何かを信仰したこともない私に本当の信仰を理解できるかどうはわかりません。

 最後に、気に入った文章です。宗教に関して本質を鋭く突いた深い言葉だと思います。

信仰は競馬によく似ていると思うことがあります。ビギナーはよく穴を当てます。ところが、馬のことを勉強し始めたら、当たらなくなります。

私にとって神とは (光文社文庫)

私にとって神とは (光文社文庫)

 

 

 

 

 

 

 

チョコレートの世界史

 日本において誰がバレンタインデーというものを流行らせたのか?それはウィキペディアによると色々あるみたいですが、チョコレート業界の陰謀らしいです。そもそもは西暦269年の2月14日に迫害で殉教した聖職者のヴァレンタインにちなんで、中世を経て始まったようです。日本人はキリスト教徒でもないのに、楽しそうな?お金になりそうなイベントならすぐに取り入れてしまいます。

 もちろん私もそのうちの一人でした。学生時代、2月13日には机の中をきれいに片付けたり、2月14日は無駄に早く学校に行ったり、無駄に遅くまで学校に残っていた記憶があります。もちろん、それらの努力が報われることはありませんでした。世の中には努力ではどうしようもないこともあります。ブラックチョコレートよりも苦い青春です。人からもらうチョコレートは自分で買ったものよりも甘いんでしょうか?私にはわかりません。

 ただその甘いチョコレートにも砂糖の普及と同じように三角貿易産業革命が深く関わっています。

 人々がチョコレートを今のように食べられるようになったのは今から100年ほど前でしかありません。チョコレートは人類にとって、最近食べられるようになった食品と言ってもいいかもしれません。それは一体なぜなのか?チョコレートはカカオ豆からの加工が必要な商品です。チョコレートの原料のカカオ豆は甘くありません。元々は苦くて渋いポリフェノールの味です。またコーヒー豆と違い、重量の半分ほどが油脂なのでそれを加工し、砂糖やミルクや他の原料を加えてチョコレートを作ります。また、溶けやすく取り扱いに注意が必要な商品です。そのためにチョコレートが世に普及するためには技術の発展や輸送網の確保などの社会基盤が発展している必要がありました。熱帯地帯で栽培されたカカオがヨーロッパに渡り、加工されてチョコレートになりました。その中でチョコレートの普及に最も貢献したのは産業革命を経て工業が発展していたイギリスでした。他のヨーロッパの国々、ベルギーやフランスではチョコレートの大量生産よりも職人の手作りのような方法でチョコレートが作られていたようです。

 カカオは中米原産のため『コロンブスの交換』が成立するまでヨーロッパはカカオのことは知りませんでした。そして、その中南米でもカカオは貴重品でした。アステカ人たちの間でカカオは宗教、経済、食品として用いられていました。

 宗教や通過儀礼の際にカカオは神々に供え物として捧げられていたそうです。また結婚式の引き出物にカカオ、死者の旅立ちにカカオが使用されていたそうです。

 経済面では金や銀と同様にカカオも貨幣として使われていました。もちろん良く乾燥させたものが使用されていました。トマト一個とカカオ一粒。鶏の卵はカカオ二粒、野兎はカカオ100粒で取引されていました。

 もちろん貨幣として使用されていたくらいなので、カカオを食品として口にできたのはアステカの中でも一部の人々だけでした。ただ、その時の飲料は苦く、滋養強壮のために高価なものを口にするということを期待していたということです。アステカを征服したコステロもスペイン王カルロス一世宛に、カカオのこれらの用途について書簡で知らせています。この苦かったカカオに砂糖を混ぜたのはスペイン人であり、ここからカカオとチョコレートの世界商品化が進むことになります。

 カカオは砂糖や紅茶と同様に世界を変えてしまった商品といるかもしれません。ココアが普及した時期は砂糖や紅茶がヨーロッパで普及した時期と重なります。これらの商品はやはりヨーロッパで栽培できないという共通点がありました。カカオの生育に適しているのは、高温多湿地帯で、平均気温が摂氏27度以上、年間降水量が2000ミリ以上の地域です。これらの条件を満たす場所はヨーロッパにはありません。中南米、西アフリカ、東南アジアなどの地域がカカオの栽培に適しています。著者は三角貿易における砂糖とカカオの類似点を指摘し、砂糖とカカオは双子のようなものと述べています。砂糖の強制労働と同様に、アフリカからブラジルに移送された黒人奴隷の数は16世紀から19世紀にかけて350万から500万人程にもなります。

 日本では特にガーナがカカオ豆の産地として知られています。ロッテの板チョコのおかげで、日本人でガーナという国を知らない人はいないと思います。ただ場所はアフリカのどこかでなんとなくわからない。もしかしたらこれが、アフリカに縁の薄い日本人の一般認識かもしれません。ただ、そのガーナでカカオの栽培が開始されたのは1879年です。それからすぐにカカオ豆の一大生産地に成長しています。1879年というのは、固形のチョコレートが開発されて普及が始まった時期、ヨーロッパで奴隷貿易廃止の動きが出ていた時期と重なります。固形のチョコは1847年、イギリスの三角貿易で栄えていたブリストルという街で作られました。奴隷制1830年以降イギリスを先頭にして廃止の動きが出ていました。その結果、今まで、西アフリカ諸国から黒人奴隷を連れて行って中南米で栽培していたのを、逆にカカオを輸入させて西アフリカで栽培させたということになるでしょうか?ここら辺のチョコレートにまつわる西アフリカの農業事情、工業事情についてはまたいつか個人的に調べたいと思います。

 

本書の後半のほとんどはキットカットを開発したロウントリー社の話です。日本にキットカットが登場したのは1973年。不二家がロウントリー・マッキントッシュ社と提携して売り出したのが始まりだそうです。ただキットカットを売り出したロウンカントリー社は1988年にネスレに買収されたそうです。今はもうネスレキットカットです。それでも、キットカットには他のチョコにはない長い歴史があります。

 ただの固形のチョコレートから、キットカットが開発されるまでに、やはり技術の進歩が必要でした。ウエハースを薄く均等に焼き上げることが当時の技術ではまだ難しかったからです。1920年代にキットカットの構想が始まって、完成して販売されたのは1935年です。また、キットカット開発時の社長、ベンジャミン・シーボーム・ロウントリーは社会福祉にも興味を持ち、ロウントリー社で行われた福祉政策はイギリスの福祉制度にも影響を与えたそうです。商品の広告も当時としては斬新でロウントリー社は、自動車やTVなど常に時代の最先端の物を広告媒体に使い会社の製品を普及させていったそうです。著者の専門は元々、社会学のようで、貧困対策などを行ったロウントリー社の資料を見たことがきっかけとなりこの本を書くことになったようです。実際、半分くらいはキットカットの話です。

 とりあえずこの本を読んだ後には、キットカットが食べたくなります。西アフリカのチョコレート事情はまた今度調べることにします。意外にもガーナではなくガーナの隣のコートジボワールがカカオの生産量世界一です。

チョコレートの世界史―近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石 (中公新書)

チョコレートの世界史―近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石 (中公新書)

 

 

馬の世界史

 整備士というのは基本的に工場勤務とサービス業の悪い所を兼ね備えた職業です。

仕事終わりにコンビニに行ってお釣りをもらう際に、自分の右手を見てみたら、落ちないオイルの汚れがある、慌てて左手で受け取ろうとするけどやっぱり左手も汚い。そして少し悲しくなります。その手では私は仕事終りに料理を作ろうという気にはあまりなりません。つまりそれはサンドイッチが作れないということを意味します。

 そしてディーラーなどに勤務すると、神様であるお客様に合わせるために土日休みは基本的にはありません。私も日曜日に休んだことがありません。つまりそれは競馬(中央)を見に行けないことを意味します。サンドイッチは誰かが作ったものを食べればいいとして、競馬は実際に生で見たいものです。勝たなくても賭けなくてもいいので、競馬を見に行きたいというのが今のささやかな願いです。整備士はお金ももらえない職業なのでできれば勝ちたいですが…

 『馬の世界史』は馬好きの著者が自分自身の満足のために書いた本です。

世界中に約4000種類もの哺乳類がいたのに、人類が家畜として飼いならしたのはたったの10種類あまり。シマウマは家畜として飼いならしていないのに、馬は飼いならすことができている。コロンブスが来た時、アメリカ大陸はまだ紀元前の古代ほど文明しかなかった。遊牧民族が世界史が果たした役割は大きいはずなのに、歴史の片隅に追いやられていないか。それらはなぜなのか?その答えを自分自身のために著者が書いています。そして馬好きの西洋史の研究者として、馬がこれまで歴史の中で果たしてきた役割に関してあまりにも軽く見られているのではないかと憤っています。

今日、馬が軍事力や輸送力の主力をなす社会など、ほとんどない。馬の動力に代わって機械力が、どこでもありふれたものになっている。われわれはもはや、馬が社会のなかで担っていた役割の重大さについて、想像することすらできない。馬とめぐりあったおかげで、おそらく人間の文明は、数百年、あるいは数千年も、速く進展しただろう。それが人間にとって幸運だったのか不運だったのかは、わからない。しかし、そのような事実は、意外に軽んじられており、ほとんどかえりみられることはない。これほど関わってきた動物なのに、そのことを確認する努力はきわめて少ない。

 確かに、今はもう馬が移動や動力の中心になっている社会はありません。20世紀、21世紀を経て、馬は二輪車に、馬車は車になりました。内燃機関の発達が、馬の重荷を解放したといっていいでしょう。19世末のロンドンが舞台の『シャーロック・ホームズ』も、物語の中で事件が起こると馬車でワトソンと二人で仲良く出かけています。数ある作品のうちののいくつかは『馬』を手掛かりにホームズは事件を解決しています。一例ですが記念すべき一作目の『緋色の研究』では馬の蹄鉄から犯行に使われた馬車を割り出しています。競走馬を題材にした話もあります。ただ、作中で乗り物の主役だった馬車も物語の舞台が20世紀初頭のロンドンになると内燃機関にとってかわられています。

 しかし、動力が馬から内燃機関に取って代わると、歴史の中での馬が過小評価されてしまうことになりました。

 そもそも馬がいなければ『速度』という概念を人間は持つことができなかったのではないか?馬がいなければ21世紀でさえ未だに古代のような世界だったのではないか?速度という概念が人類に浸透したから世界史の進む速度も早くなったのではないか?と著者は述べています。これは個人に置き換えると、初めて自転車やバイク、車を運転したときの気持ちに似ているかもしれません。自分の肉体が出せる速度以上の物を手に入れて、自分の『世界』が広がった時の気持ちに。私も自分が初めてバイクに乗った時の気持ちを未だに覚えています。一か月も経たずに事故って大金を払って直して、半年後には盗難にあったのは今では笑い話です。盗難した奴を許すことはありませんが。

 そして、コロンブスが来た時のアメリカ大陸とユーラシア大陸の文化の『速度』の差を馬の存在に求めています。馬がいた世界では古代から馬の速度を前提にして世界が回っていました。

とりわけペルシア帝国にあっては、道路建設によって通信網が整備され、情報の伝達に長足の進歩がもたらされた。なかでも「王の道」と呼ばれる国道が築かれ、駅伝制が設けられたことは、特筆される。イオニア地方のサルディスから、都の一つスーサまで「王の道」を駅伝制でたどるとすると、それまでなら徒歩一一一日かかった行程を、早馬に騎乗すれば七日間で到達することができた。

 

反対にアメリカ大陸では馬の速度というものを知らずに、ヨーロッパ人と出会うこととなりました。アメリカ大陸では、はるか昔に食用のために絶滅させてしまっていたからです。 

 世界史を大きく動かした騎馬遊牧民族の歴史にも触れられています。西洋史観では遊牧民は定住する土地を持たず、略奪を行う恐ろしい存在であり、歴史の教科書ではいわゆる主流とは見なされていない存在かもしれません。しかし、それも騎馬遊牧民族の過小評価です。歴史の中で大きな役割を果たしていた騎馬遊牧民族の多くは土地を転々とする生活様式だったので記録を残すことが多くありませんでした。文字を持たない騎馬遊牧民族もありました。記録の多くは中国や西洋の騎馬遊牧民族に襲撃を受けた側からの記録です。そのせいで世界史の中で及ぼした影響について過小評価を受けています。歴史の中で、唯一アジアから日本に攻め込んだのも騎馬遊牧民族の元でした。もしも、日本海がなかったら日本も支配されていたかもしれません。そう考えたら騎馬遊牧民族はすごいと改めて思いませんか?

 

また、ギリシア神話の海の神である『ポセイドン』は元々馬の神だったということです。全部で10章あるうちのポセイドンを扱った1章だけが元々の専門分野だそうです。それだけ著者が馬好きということです。ポセイドンに関しては、馬と船は人間の速度以上の物を出せるもの、世界を広げたものとして、馬の神が転じて海の神になったのではないかということです。

ギリシア神話のなかにポセイドンなる神がいることは、どなたもご存知だろう。この神は「海の神」として知られているが、もっと古い時代には「馬の神」であったという。神話のなかに奥深く残る伝承を読み解くと、「馬の神」ポセイドンの姿がとらえられるのである。その痕跡をとどめた逸話や図像も少なからず残存する。なぜ「馬の神」が「海の神」に変身したのか。そこには、地中海世界の社会と文化を理解する重要な鍵がかくされている。

 

馬と草原、船と海原。両者を比べてみると、さまざまな点で共通点をもつことに気づく。なによりも、人も物も情報も速く移動することになり、空間が拡大し、時間が短縮される。こうしたことは人間の営みを大きく変えてしまうのである。

 

科学技術の発達により、家畜を動力源として使うことは主流ではなくなりました。馬がいなくても暮らしが成り立つ世界になってしまったのかもしれません。それでも私はいつか整備士を辞めて手作りのサンドイッチを持って、やっぱり競馬場に行きたいと思います。

犬が最良の友であるなら、馬は最良の奴隷であったともいえるだろう。しかも、馬は躍動感にあふれ、美しさを損なうことがなかった。だから、それは人間から敬愛されるもっとも高貴な奴隷である。むしろ、かぎりなく友に近い下僕であるのだ。 

馬の世界史 (中公文庫)

馬の世界史 (中公文庫)

 

 

砂糖の世界史

 子どもの頃、読書感想文は嫌いでした。でも、もしも子供の頃にこの本を読んでいたら読んだ内容を誰かに要約して話したくなっていたかもしれません。

 紅茶派かコーヒー派かと聞かれたら紅茶派ですよね?紅茶と聞いて想像する国は、おそらくイギリスだと思います。そして、紅茶に加えるものと言えば本書のテーマの砂糖です。ただ、この紅茶と砂糖とイギリスという組み合わせの裏には歴史の暗い部分が深く関わってきます。本の結末から引用させていただきます。

砂糖というひとつのモノ、つまり商品をつうじて、近代の世界史をみようというのが、この本の目的でした。こういう目的のためには、砂糖や茶や綿織物は、たいへん都合のよい商品なのですが、そういうモノはほかにもいろいろ考えられます。小麦やコメのような基本的な食糧や基本的な衣料もありましょうし、もっと新しい時代なら、石油や自動車のような商品をつうじてでも、その生産から消費までの全体を注意深く見通すことによって、世界の歴史の動向がわかるはずです。

 

モノをつうじて歴史をみることで、どんなことがわかるのでしょうか。大事なことが二つあります。ひとつは、そうすることによって、各地の人びとの生活の具体的な姿がわかります。

 

モノからみた歴史のもうひとつの特徴は、世界的なつながりがひと目でわかるということです。とくに「世界商品」の場合は、まさしく世界に通用した商品ですから、その生産から消費までの過程を追うことで、世界各地の相互のつながりがみえるのです。

 世界商品とは世界中で普及している商品のことです。現代では携帯電話、テレビ、自動車などになるでしょうか?大航海時代ではそれが、砂糖でした。色、味、遠い異国からの輸入品…砂糖は当時の最高級の商品でした。

 砂糖は熱帯か亜熱帯の地方でしか取れなく、サトウキビから砂糖を製造する過程では過酷な重労働が必要な商品でした。つまり、砂糖の大量生産はそもそもが熱帯地域での強制労働を前提としたものでした。

 イギリスのリヴァプールからイギリス産の商品を積んで出航した船は、西アフリカの海岸近くで奴隷と交換していました。そしてその奴隷をアメリカの新大陸に連れていき売りさばき、砂糖を購入してイギリスに帰りました。これが三角貿易です。

 当時、ヨーロッパ人はアフリカ大陸の内陸部に入ることはできませんでした。マラリヤなどの風土病のためです。そのため、アフリカの現地の支配者を通じて奴隷を購入していました。ヨーロッパ人がアフリカの内部を探索できるようになるには『キニーネ』という薬が出てくるのを待たなければいけませんでした。ただ、キニーネもアメリカ大陸原産の植物からの薬です。この薬も植民地主義と深く関わっています。

 ヨーロッパの気候ではサトウキビや紅茶などの植物が取れないということが、アフリカや、南北アメリカの熱帯に住んでいた人たちにとって致命的な影響を及ぼすことになりました。この奴隷貿易を通じて、アフリカから海を越えて連れていかれた黒人は1000万人程ではないかということです。正確な数字は誰にもわかりません。このように砂糖が人間を別の大陸に連れて行くほどの植物でした。

 逆にヨーロッパにあってアメリカ大陸になかった主要な資源は馬でした。ピサロインカ帝国遠征記を読むといかに馬が当時のインカ帝国の人々に衝撃を与えたかがわかります。ピサロが皇帝アタバルバを捕らえた場面でも、馬の疾走を見てインディオたちが逃げ出したという記述があるくらいです。また、ピサロは少数の馬と少数のスペイン人でインカ帝国を征服しましたが、争いの度に負傷した人と同じように馬の数も数えています。これだけでも馬がどれだけ大切だったかがわかります。またヨーロッパ人は病気に対する免疫を家畜から免疫をもらっていたので、アメリカ大陸の人々はヨーロッパから持ち込まれた病気によってヨーロッパ人と出会う前に疫病で大多数が死んでしまいました。話が馬にそれてしまいました。馬の話はまた今度にしたいと思います。

 アメリカ大陸からの砂糖と、アジアからの茶葉という当時の高級品を混ぜるということがイギリスの上流階級の流行でした。イギリスは上流貴族の真似をする国民性だったので、国民全員が紅茶の習慣を持つことになったということです。イギリスでは茶葉も砂糖も取れないのに、紅茶と言えばイギリスとイメージされるのにはこういった訳があります。ちなみにアールグレイという紅茶は、とある紅茶好きのイギリス人の名前です。また、産業革命のイギリスの労働者を支えていたのは砂糖入りの紅茶のカロリーでした。産業革命が砂糖入りの紅茶を生んだのか、砂糖入りの紅茶が産業革命を生んだのか…産業革命と砂糖と奴隷貿易は切っても切り離せない関係です。他のヨーロッパ諸国はワインが生産できたので、イギリスの様には砂糖が必要がなかったということです。確かにイギリス以外の国では今でもワインが思い浮かびます。もちろん、同様に奴隷貿易を行っていたことは確かです。

 今、砂糖は高級品ではありません。時代が変わり奴隷の代わりに機械がその役割を担える様になったのでしょうか。普段砂糖を食べるときに昔の歴史のことを考える人はあまりいないと思います。ただ、その歴史を知っているか知らないかということは大きな違いがあると思います。

 奴隷貿易で無数の黒人が過酷な目にあった。そして当時搾取されていた多くの国は、今でもその影響から抜け出すことができずに発展途上国。これらの歴史の暗い部分を知っても明るい気持ちにはなりませんが、歴史を学ぶということは知りたくもないことを知るということなのかもしれません。

 ただ、私はカモミールテイーが好きです。

 著者は世界システム論の紹介も行っています。

 馬の世界史は別の方の本です。

砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)

砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)

 

 

 

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古代ローマ人の24時間

 古代ローマ帝国が好きです。

 それはもしかしたら、多神教で温泉好きなローマ人に一人の日本人として親近感を抱いているからなのかもしれません。もしくは、ただ単純にキリスト教が存在していなかった頃の世界というものを知りたいのかもしれません。もしくは、ただの純粋な好奇心を満たすためかもしれません。

 例えば今から2000年ほど前のローマ帝国の時代でさえ舗装された当時の高速道路があったのに、今でも主要な道でさえ舗装されていない国もある。

 今から2000年ほど前のローマ帝国の時代でさえ水道が通っていたのに、今でも水道がない国や地域もある。

 そして、今から2000年前のローマ帝国では寛容の精神で多神教が一般的だったのに、今では一神教が世界の国での多数派を占めている…

 これらの問の答え、もしくは解決の糸口を歴史の中から個人的に見出したいのかもしれません。

 優秀なガイド(著者)とともに、トラヤヌス帝時代のローマ帝国の24時間を疑似体験することができます。『古代ローマ人の24時間』は『ローマ人の物語』を読んだ人には間違いなくお勧めの一冊です。大カトーカルタゴとイチジクの話などの見覚えのある個所も出てきます。

 物語の舞台は、パクスロマーナ真っ只中、五賢帝のうちの一人トラヤヌス帝の時代、ローマ帝国の領土が最大を迎えた時期のローマです。本の文章を借りれば

端から端までの距離は一万キロにもおよび、地球の円周のほぼ四分の一に相当した。現在のスコットランドからイランの境界まで、南北はサハラ砂漠から北海までがローマ帝国の領土だったわけだ。 

紀元一一五年、トラヤヌス帝の治世下におけるローマのとある路地が本書の旅のスタート地点だ。当時のローマは、その勢力が最大の時期にあり、おそらくその美しさも頂点を極めていたものと思われる。そのような時期の、とある一日が間もなく幕を開けようとしている……。

ということです。

2000年前でも現代でも人類は同じような悩みを抱えたり、同じような考え方や、行動をして生きてきたのだと改めて思います。加齢に伴う頭髪の後退、落書き、美の追求…方法は今と変わっているものもあったりなかったりします。

古代ローマにもすでに、髪がふたたび生えてくるという効能書きの「魔法の」ローションが存在していたが、当然ながら効果はなかった。

性、愛、悪口、競争心……。ローマの壁に刻まれた落書きのテーマは、おおよそこのようなものだったことが、発掘調査によって明らかになっている。つまり約二〇〇〇年ものあいだ、まったく変わっていないということだ。

ここで、美顔パックや美肌クリームについて述べておく必要がある。どちらもローマ時代にたいへんな人気があり、オウィディウスやガレノス、大プリニウスといった多くの著述家たちも、これを奨励した。種類はさまざまだ。原材料といい効力といい、とりわけ皮膚に問題を抱える人のために考案されたものには驚嘆させられる。たとえば、顔にできた腫瘍には雌牛の胎盤が用いられる。顔面の染みには雄牛の胆汁、身体のほかの部分の染みにはレンズマメ、ニキビにはバター、やわらかく白い肌にするためには水仙の球根、傷口をふさぐためには重曹、美白にはメロンの根やクミンといった具合である。また、皮膚炎には子牛の生殖器のエキスがよいとされていた。

 ローマ帝国の時代から2000年の歳月が経っていますが、未だに人類はこれらの問題を解決することができていません。できれば頭髪の問題が解決した時代に生まれたかったです…そして、私のこの画面の文字化けのような何の意味もない文章も、いつか何かの役に立つでしょうか?頭髪の問題も含めて2000年後の人類に期待です。

 ローマ人の宗教観は日本人にもなじみの深い多神教です。キリスト教が普及してからのローマと、それ以前のローマでは思想ががらりと変わっています。一応この本では、まだキリスト教が普及していない頃のローマ帝国です。キリスト教を信仰していたら多様な神々というのはあり得ません。

古代ローマには、名前を憶えきれないほど多くの神々が存在している。

古代ローマの宗教のなかには、このイシスやセラピス〔古代エジプトの神〕のように、征服した領土から「輸入された」神々も存在し、神殿が築かれただけでなく、ローマ人のあいだにも神官や入信者になる者がいた。

もうひとつ、外来の神として重要なのはミトラ神である。ペルシアを起源とする神で、東方の地で戦ったローマ軍団の兵士たちによってローマにもたらされたものだ。ミトラ教でも雄牛が重要な役割を持つ。ミトラ神は雄牛を殺している姿で描かれることが多く、その時に流される雄牛の血が世界に精気をもたらすとされていた。ミトラ教の思想は古代ローマ社会に深く根づき、キリスト教の最大の「ライバル」となったほどだ。

ミトラ神とキリストには、いくつか興味深い共通点がある。両者はいずれも全世界的な友愛を説き、ともに一二月の二四日から二五日にかけて、岩屋で生まれたとされているのだ。さらに驚くべきことに、古代エジプトのホルス神や、ギリシアの神のディオニュソスも、一年のちょうどこの時期に生まれている。なぜこれほど多くの重要な神の生誕が、この時期に集中しているのだろうか。

それには天文学的な理由がある。一二月の二一日は冬至に当たり、一年で昼がいちばん短く、もっとも暗い日だ。この日を境に、日ごとに日の射す時間が長くなっていく。多くの宗教や文明社会において、神の生誕を太陽がもどる時期と一致させることは、たいへん象徴的な意義のあることだった。古代ローマでは、一二月二五日が太陽の生まれた日〔ディエス・ソリス〕とされていたのも偶然ではない。

 暦という部分でも現在の世界と古代ローマは関わりを持っています。

 興味深いことに、現在使われているすべての月の英語名は古代ローマのものがもとになっている。各月の意味を見ていこう。

一月(January)──ラテン語Ianuarius(イアヌアリウス)、ヤヌス神の月。

二月(February)──ラテン語Februarius(フェブルアリウス)、清め〔februare〕の月。

 三月(March)──ラテン語Martius(マルティウス)、マルスに捧げられた月。

四月(April)──ラテン語Aprilis(アプリリス)、アフロディーテエトルリア名Apruより)に捧げられた月。

五月(May)──ラテン語Maius(マイウス)、女神マイアに捧げられた月。マイアはメルクリウスの母であり、田畑の作物をはじめ、あらゆる生物の成長をつかさどる神だ。

六月(June)──ラテン語Iunius(イウニウス)、女神ユーノーに捧げられた月。

七月(July)──ラテン語Iulius(イウリウス)、カエサルを讃える月。 八月(August)──ラテン語Augustus(アウグストゥス)、初代のローマ皇帝アウグストゥスを讃える月。

 九月、一〇月、一一月、一二月の英語、September、October、November、Decemberは、ラテン語の綴りをそのまま用いている。これらは数字が語源となっており、神の名にちなんだものではない。紀元前一五三年まで、古代ローマの暦では三月が一年の始まりとされていた。したがって、九月、一〇月、一一月、一二月は、それぞれ一年の七番目〔septem〕、八番目〔octo〕、九番目〔novem〕、一〇番目〔decem〕の月に相当した。つまり、最後の四つの月は、数字の順番通りに呼ばれていたのだ。このような伝統が、現在にまで残っている。

7月はカエサルの月、8月は初代皇帝だったアウグストゥス、ではその次の9月は?アウグストゥスの次の皇帝はティベリウスアウグストゥスは自分の血を継ぐ後継者に後を託してティベリウスに後見でもさせたかったのかもしれませんが、帝位を継がせようと思っていた者たちに死なれて、仕方なくティベリウスに後を継がせました。結果、ティベリウスは見事に皇帝の役目を果たすことになります。私は皇帝になる前も、なってからも。島に引きこもって出てこなくなってしまうようなティベリウスが好きです。自分のやるべきことをしっかりとわかっていた皇帝でした。9月がティベリウスを讃える月ではないのが個人的には少しだけ残念です。もう一人好きな皇帝を挙げろと言われたら迷わずユリアヌスを選びます。

 現在でも月の名前はローマ由来ですが、西暦はイエスの生年が由来とされています。イエスが生まれてから500年以上も経って、時間を巻き戻して設定されたのが『西暦』です。今では世界中で使わざるを得ません。『西暦』というのは、ものすごい発明だと個人的には思います。

 ローマの食事に関しては、今のイタリア料理とは比べられないくらいに使われている食材が少ないです。『コロンブスの交換』前の時代なのでアメリカ大陸原産のトマト、ジャガイモ、トウモロコシなどがありません。そして、ナスもパスタもまだ普及していません。これらの食材がないイタリア料理を想像することはちょっと難しいです。そして食材のかすは床の上に投げ捨てていたそうです。皿に集めた方が効率的に片付けられると思いますが、奴隷に仕事でも与えていたのでしょうか?疑問が残ります。

 またフォークが発明される以前の時代だったために手づかみで多くの物を食べていました。フォークなんてすぐにでも発明できそうですが…なんでも手に入るような現代でも、後世から見たら「何で単純なあれを発明しなかったんだ」と言われる日が来るかもしれません。

 最後に、もしも古代のローマをタイムトラベルすることがあったら、頭上に注意した方が良いです。ローマの建築物(マンション)の高さの上限は21mでした。その高さから異物が落ちてくる可能性があるからです。昔見た古いイタリア映画では新年を迎えるとお皿か何かを窓からポイポイ投げていましたが、もっと恐ろしいものが降ってくる可能性があります。

ローマには建物から尿や糞便を捨てることを取り締まる特別な法律があり、とても厳しい内容だった。刑罰は、上から投げた「爆弾」がどのような被害をもたらしたかによって異なる。単に衣服を汚しただけなのか、身体に何か被害があったのか(間接的なものを含めて)……。要するに、帝政下のローマでは、どこにいても尿や糞便が上から降ってくる危険がつきまとい、誰もがその被害に遭う可能性があるということだ。

古代ローマ人の24時間 ---よみがえる帝都ローマの民衆生活 (河出文庫)

古代ローマ人の24時間 ---よみがえる帝都ローマの民衆生活 (河出文庫)

 

 

 

 

長崎の原爆ドーム

 私はこの本を読むまで、長崎に原爆ドームのような建物が残っていないのは原爆ですべてが無くなってしまったからだと思っていました。この本の著者もそうでした。

 長崎出身の著者は青春時代を長崎で過ごしたにもかかわらず、原爆が落とされたときに残っていた、浦上天主堂を詳しくは知りませんでした。2000年に見たテレビのドキュメンタリー番組を見て、戦後しばらく残されていた浦上天主堂の廃墟を知りました。そして、その被爆した浦上天主堂を巡って不可解な出来事があったことを知ってしまいました。

 被爆して廃墟になった浦上天主堂を保存する動きが出ていたのに、突如として教会も長崎市長も撤去の方向に舵を取った…著者は撤去の背景に何か不可解なもの、つまりはアメリカの力が働いたのではないかと調べます。

 丹念に調査を重ねて背景を暴いていますが、如何せん撤去(1958年)から半世紀以上も経っています。裏付けに裏付けを重ねますが、状況証拠しか出てきません。それでも、被爆から撤去に至るまでの経緯を考えてみると、限りなく黒に近いグレーという答えを出しています。

 

 キリスト教の国であるアメリカは、キリスト教被爆建物である浦上天主堂を残しておきたくなかった。だから、裏から手を回して浦上天主堂を撤去させた。

 

簡潔に言えば、これが著者の結論になります。つまり、長崎への原爆投下はキリスト教の国からの落とし物です。広島に世界で初めて原子爆弾を使用する前には従軍司祭によるミサさえ行われています。

 

私たちは祈ります 戦争の終わりがくることを 私たちは知っています まもなく地球上に平和が訪れることを 出撃する爆撃機の乗組員たちに 神のご加護がありますように そして彼らが無事に任務を終えることができますように 私たちは神を信じて出撃します 神が私たちを永遠に見守り続けてくださいますように キリストの名のもとに

 

もちろん長崎にはキリスト教徒以外もたくさんいましたが、日本で一番キリスト教信者がいた場所です。日本で一番キリスト教徒が迫害されていた場所でもあります。被爆地である浦上で暮らしていた信者は12000人ほど、その中で死傷者は8500人ほどと言われていますが、正確な数字はわかりません。全体では1945年の末までに7万人を越える方が亡くなっています。

 

 広島でも被爆した建築物を保存か撤去かという問題は、難しいものでした。今現在は、保存の方針で固まっていますが、当時は廃墟から復興するのに過去の悲惨な体験を思い出すものを残したくないという思いが市井の人々の間にあったのも確かです。原爆ドームでさえ解体か保存かで揺れ動いていた時期もあります。

 広島の中心部には原爆ドームだけではなく、本通りの中のアンデルセン(改装中)や54号線沿いの日本銀行広島支店などの被爆建物があります。知名度は劣るかもしれませんが少し離れた宇品や出汐にも広島市郷土資料館陸軍被服支廠など比較的大きな建物が残っています。

 ただ間違いなく広島の被爆の象徴として真っ先に挙げられるのは原爆ドームです。原爆ドームという実際の建物を抜きにして今の広島のことを考えることはできません。ただ、広島という街も原爆ドームも、外国に対しての宗教的な色はありません。それだけに長崎の浦上天主堂が残されていたならば、とても大きな意味があったはずです。

 世界にたくさんキリスト教の国がある。そのうちの国の一つが、信仰のない国のキリスト教を信仰していた土地に原子爆弾を使った。浦上天主堂が残されていたならば、宗教とは何か、戦争とは何かについて、広島の原爆ドーム以上にキリスト教の国々の人たちに何かを訴えかけることができたのではないかと思います。

 日本人が考える以上に、広島と長崎は日本の中でというよりは世界の中で大きな意味を持ってしまった街です。そのせいかどうかわかりませんが、とりあえず私は海外で自己紹介するときは「広島出身の日本人」と必ず言っています。特に深い意味はありません。

 著者は最後に長崎の撤去の決断について、完全に間違った選択をしたと述べています。私もそう思います。 

ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」

ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」